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  • 2016.08.05 Friday
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倶知安町のんびり旅【その11】

過ぎし日の思い出第13弾!
祖母の月命日」、「バイキングに、バッティングセンターに、初メンカラオケに」でも述べましたが、シルバーウィーク中に地元・倶知安へ去る昨年9月19日に帰省し、翌々22日まで滞在していました。
20日、町内をドライブしている時、新たな史跡を見つけました!
しかも、実家から歩いても1〜2分ほどのところに(笑)。

〈白木建設工業株式会社〉
前述の通り、実家の近くにある通称・白木建設。
この敷地内に史跡を見つけました。
小さい頃から何度も白木建設の敷地内を通ったことがありましたが、意識して見たことがなかったため、今回初めて気がつきました。
以下、碑文を以って代えさせていただきます。

↑短歌「あやうしと しりべつ川の白波を 命にかけて けふわたりけり」

■碑文■
 松浦武四郎が、ソーツケ(宗助川)探索のための尻別川を渡ったのは、安政4年(一八五七年)五月十日(陽暦六月一日)であった。
ソーツケは、サケ・マスの豊庫として名が知られていた。
 岩内の乙名セベンケが棹をとり、松浦はのち「西蝦夷日誌」にこの時の印象を和歌として残した。


↑裏

■碑文■
 父白木慶一は、昭和八年国鉄の軌道砂利納入業者として事業を始めた。
幾多の辛酸を重ね、多くの人たちの協力をえて、現在の会社の礎を築いた。
 この地は、当時砂利採集を行った尻別川のあったところなので、松浦武四郎がはじめて渡った日に思いをはせ、この碑を建立した。

 平成九年六月一日

 白木建設工業株式会社
 代表取締役社長 白木 巖
             斉藤 芳江
             皆川 悦子
             白木 稔
             白木 茂
             松澤 典子
             白木 美恵子
             白木 昇
             白木建設社員一同

 協力者
             武内 一男
             脇山 忠
           文 武井 静夫
           書 中野 歸山
             菊池石材店
     
〈感想〉
まさか実家の目と鼻の先に史跡があるなんて予想だにしませんでした。
まだまだ知らない史跡が倶知安のどこかにあることを実感した瞬間でした。
また見つけ次第、ブログで紹介しようと思います。
ちなみに、2年ほど前に比羅夫でも史跡を見つけましたが、まだ詳しく調べることができていません・・・。
倶知安へ帰省した際、できれば今年中には調べに行き、ブログで紹介したいと思います。

〈おまけ〉
以前にもブログで紹介したハンバーガー屋のパティー・ダディーへ久しぶりに行ってきました。
まるで本場アメリカへ来たかのような店内、味も申し分なく美味しかったです!
この時以来行っていないので、また行きたいと思います!!




〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)
http://importants.jugem.jp/?eid=61(倶知安町のんびり旅【その4】)
http://importants.jugem.jp/?eid=73(倶知安町のんびり旅【その5】)
http://importants.jugem.jp/?eid=90(倶知安町のんびり旅【その6】)
http://importants.jugem.jp/?eid=162(倶知安町のんびり旅【その7】)
http://importants.jugem.jp/?eid=178(倶知安町のんびり旅【その8】)
http://importants.jugem.jp/?eid=233(倶知安町のんびり旅【その9】)
http://importants.jugem.jp/?eid=411(倶知安町のんびり旅【その10】)


倶知安町のんびり旅【その10】

過ぎし日の思い出第31弾!
家族6人全員揃って〜4つの節目を祝す〜』でも述べましたが、去る8月9日、僕の地元である倶知安町へゴールデンウィーク以来に帰省し、15日まで滞在していました。
おまけに、2年振りの『倶知安町のんびり旅』シリーズ(笑)!
倶知安町のんびり旅【その9】』において「倶知安町内にある史跡を完全制覇しました!」と述べましたが、何と今回の調査で僕の知らない史跡がまだ他にもあったことが分かりました。
また、諸事情によって来年度から僕の働いている認定こども園でお盆休みがなくなってしまう関係で、今年が事実上最後のお盆休みだったこともあり、今回はこれまでに訪ねた史跡を全て訪ねてきました。
今回は新たに知った史跡を詳しく紹介するとともに、今回訪ねてきた史跡の写真を全てアップしたいと思います。
倶知安マニアの方、必見です(笑)!

〈字山梨〉
倶知安町で生を受けて24年、初めて字山梨の地に足を踏み入れました。
字山梨には現在誰も住む者はおらず、1909年9月4日に開校して1941年3月31日に閉校した山梨分教場のあった場所も今となってははっきり分からず、本当に普通の山です。
しかしながら、所々に開拓当時の面影が残っており、とてもキレイな草原が一面に広がっているところもあり、歴史の面影と自然豊かな光景に本当に感動しました。
石碑を写真撮影している途中でスズメバチに追いかけられたり(10日)、忘れもしない物凄い台風がきた翌11日に再び字山梨へ行って山奥で親の車のタイヤをパンクさせてしまったことには本当に心身ともに参りましたが・・・(苦笑)。
今回の苦い経験もあり、もう恐らく二度と字山梨の地へ足を踏み入れることはないと思います。
そんな字山梨の入り口(ここの住所は字寒別)には寒別めがね橋の記念碑があります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑記念碑『倶知安幹線 寒別めがね橋記念碑』

■碑文■
沿革

 寒別めがね橋は、大正十五年約七〇〇haの水田灌漑のため、第一幹線の水路橋として完成した。その後昭和四十三年に約一、四〇〇haの水田灌漑が計画され、国営直轄により小樽開発建設部の双葉灌排事業として着工し、用水路の近代的改修が施工されるに伴ない、昭和六十一年にはめがね橋架換工事の完成を見るに至った。往時の堅牢優美な水路橋を、めがね橋の愛称をもって長く親しまれた姿を、この地に永く遺すためにこの碑を建立したものである。

昭和六十一年十月
倶知安土地改良区
倶知安町

奥へ進むと開拓の面影、キレイな草原が一面に広がっています。





〈みうら菓子舗〉
倶知安町にあるお菓子屋・みうら菓子舗。
ここで売られているお菓子は本当に美味しく、僕もお土産を買う時はだいたいここで買っています。
そのみうら菓子舗前に倶知安の基点の由来が書かれた記念碑がありますが、今まで何度もみうら菓子舗へ行っていたにも関わらず、今まで知りませんでした。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。


■碑文■
倶知安町基点の由来

 かつて、皇室御料林であった倶知安原野へ明治二十五年五月以降開墾を始める入地者が続出した。
 そのため、明治二十七年、御料林が解除され、北海道庁はこの国有未開地に七百八十の区画を設定し、順次移住民を入植させた。
 この地点が区画測量の基点であり、まちづくりの基となったものである。

倶知安町開基八十周年を記念し建立
昭和五十二年十一月三日
倶知安町長 吉田冨美雄
倶知安町文化財保護調査委員会委員長 成麁善Ρ厂

〈半月湖畔自然公園〉
倶知安町のんびり旅【その3】』の中で紹介した詳細不明の石碑・・・。
その石碑の詳細が今回の調査で判明しました。
建立年月日が2011年6月11日となっており、僕が調査した2011年5月当時には石碑が建立途中の状態だったことが伺えます。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑左:記念碑『羊蹄と共に』、右:碑文

■碑文■
羊蹄と共に
 眠る御霊よ安らかに
羊蹄と共に
 生きる我らに明日への力を
願いをこめて

同じく『倶知安町のんびり旅【その3】』で紹介した石碑

↑右:記念碑『天然記念物後方羊蹄山の盪蛙∧帯』、左:碑文

〈樺山分校〉
これまで紹介したことがありませんでしたが、樺山分校の校庭に行幸記念碑があります。
1995年5月1日発行の『倶知安町百年史 下巻』によると、1936年9〜10月にかけての昭和天皇行幸を記念して倶知安青年団樺山支部が1937年6月13日に建立したものだそうです。

↑記念碑『行幸記念』

〈地神碑〉
これまで紹介したことがありませんでしたが、倶知安町にはあらゆる地域に地神碑があります。
『倶知安町百年史 下巻』によると倶知安町内には32基の地神碑が存在するそうです。
今回の調査ではそのうち10基を自力で見つけることができました。

↑建立:1915年11月10日(所在地:字岩尾別〈岩尾別会館横〉)

↑建立:1912年9月(所在地:字岩尾別〈岩尾別会館横〉)

↑建立:1953年9月10日(所在地:字樺山〈樺山分校校庭〉)

↑建立:1914年9月18日、改修:2011年9月(所在地:字巽〈旧巽小学校裏〉)

↑建立:1914年8月19日(所在地:字豊岡〈豊岡・巽担い手センター横〉)

↑建立:1990年11月(所在地:字寒別〈寒別めがね橋記念碑横〉)

↑建立:1915年9月24日(所在地:字末広〈旧末広小学校近く〉)

↑建立:不詳(所在地:字瑞穂)

↑建立:1904年9月(所在地:字瑞穂〈集会所横〉)

↑建立:1898年3月24日(所在地:南4条東4丁目〈倶知安小学校近く〉)

〈馬頭観音〉
地神碑同様、こちらもこれまで紹介したことがありませんでしたが、『倶知安町百年史 下巻』によると倶知安町内には22基の馬頭観音が存在するそうです。
今回の調査ではそのうち7基を自力で見つけることができました。
※現在資料が手元になく、次の倶知安町帰省の際に郷土資料館で詳しい建立年月日等確認するので、それまで詳細はお待ち下さい。

↑建立:(所在地:字旭〈旭ヶ丘公園〉)

↑建立:(所在地:字岩尾別〈岩尾別会館横〉)

↑建立:1918年8月、復元:1996年9月(所在地:字岩尾別)

↑建立:(所在地:字豊岡〈豊岡・巽担い手センター横〉)

↑建立:(所在地:字扶桑)

↑建立:(所在地:南4条東4丁目〈倶知安小学校近く、上記地神碑横〉)

↑建立:(所在地:南4条東4丁目〈倶知安小学校近く、上記地神碑横〉)

〈羊蹄ハイツ〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念碑『峠下遺跡』

〈旭ヶ丘公園〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その2】』・『倶知安町のんびり旅【その3】』・『倶知安町のんびり旅【その4】』・『倶知安町のんびり旅【その5】』を参照のこと。
ちなみに、『倶知安町のんびり旅【その3】』で紹介した廃屋の神社は取り壊されてなくなっていました。

↑記念碑『馬鈴薯の花咲く頃となれりけり 君もこの花を好きたまふらむ』

↑記念碑『包丁塚』

↑記念碑『開基記念』

↑記念碑『一すぢの太きけむりを立たせつつ 豆からをやく風いでぬまに』

↑記念碑『旭ヶ丘公園』

↑記念碑『旭ヶ岡公園』

↑聖徳太子像

↑記念碑『出雲六社画冥王掌大神』












↑三十三観音像(うち見つけられたのは『倶知安町のんびり旅【その3】』同様12基)

↑手水鉢

↑記念碑『レルヒ少佐』

〈伊井化学工場〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その2】』・『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑伊井化学工場

↑記念像『伊井億右衛門翁之像』

〈二世古酒造〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑二世古酒造

〈大仏寺〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その4】』を参照のこと。

↑左:記念碑『われ鍬をもて山水を画おん』、右:碑文

〈旭ヶ丘霊園〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その5】』を参照のこと。

↑記念碑『倶知安隧道遭難死者慰霊碑』

↑記念碑『布袋座遭難者慰霊碑』

↑記念碑『旭ヶ丘冷水』

〈さくら公園〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念碑『倶知あ草分けの地』

〈レルヒ公園〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念像『レルヒ中佐之像』

〈岩尾別会館〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その4】』を参照のこと。

↑記念碑『拓秀峰麓郷』

〈ひらふ高原中央公園〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その9】』を参照のこと。

↑記念碑『青き山なり ニセコの山は 吾心また青々 心涼しむ』

↑公園内に咲くアジサイ(透き通った水色のアジサイがとてもキレイでした!)

〈円融寺〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その4】』を参照のこと。

↑記念碑『崇徳碑』

〈高砂水源地〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その9】』を参照のこと。

↑記念碑『霊泉』

↑記念碑『秀峰??』

〈工業発祥の地〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その5】』を参照のこと。

↑記念碑『工業発祥の地』


↑記念碑の近くにあるヒマワリ畑(一面黄色に染まるヒマワリが何とも夏らしい!)

〈旧穀倉地帯〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念碑『豊水沃土』

〈倶知安神社〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念碑『尊農開基』

↑記念碑『倶知安、小学校 発祥旧跡地』

〈八幡小学校跡地〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑右:記念碑『倶知安町は此処から創る』、左:碑文

〈山陰移住会社跡地〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念碑『開拓五十週年記念』

〈瑞穂小学校跡地〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑記念碑『豊穣の礎』

↑記念碑『米が稔った郷』

↑右:旧青木農場記念樹、左:碑文

↑記念碑『翔け未来へ豊穣の里』

〈六郷鉄道記念公園〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑踏切

↑汽車

↑駅の看板

↑信号機

↑記念碑『功績を讃えて』

〈倶知安町公民館〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑左:SL・79615、右:信号機

↑駅の看板とSL・79615について書かれた説明文

↑記念像『慈愛』

〈倶知安町役場〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その4】』を参照のこと。

↑記念碑『倶知安町民憲章』

〈恵暁寺〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その4】』を参照のこと。

↑記念碑『伊井億右エ門翁 顕彰碑』

〈後志総合振興局〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その4】』を参照のこと。

↑記念碑『後志高等国民学校記念』

〈東林寺〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その9】』を参照のこと。

↑記念碑『夕べせまる防雪林のうすやみに ましろくたかき山うどの花』

〈倶知安駅〉
詳しくは『倶知安町のんびり旅【その3】』を参照のこと。

↑水飲み場

↑すばるの像

↑記念碑『真夜中の倶知安駅に女の鬢の古き痍あと』

↑タイムカプセル『「2091年へのメッセージ」 1993.8.7 倶知安町』

〈現役校と廃校〉
今回、倶知安町内の現役校と廃校も訪ねてきました。
しかしながら、『倶知安町のんびり旅【その3】』でも述べたようにいつか学校の特集のようなものをやりたいと思っており(ってもう前の発言から3年も経ってしまいましたが 苦笑)、現在倶知安町内の学校の沿革をまとめ直しており、年内には完成させる予定のため、学校の特集も年内は難しいかもしれませんが、来年始めから徐々に行っていければと思っています。
そのため、今回撮影した写真は学校の特集の際に使用したいと思いますので、今回は掲載しませんことをご了承下さい。
今度こそ有言実行できるように頑張ります!
せめて、『倶知安町開基120周年』・『倶知安町のんびり旅【その3】』で簡単に学校の紹介をしているので、よろしければご覧下さい!!

〈感想〉
率直な感想・・・ブログでまとめるの疲れたぁ〜(笑)。
今回、新たに知った史跡に加え、これまでに訪ねた史跡を全て回り、歴史の跡を目の前に何とも言えない気持ちになった歴史三昧の旅でした。
上記の通り、スズメバチに追いかけられてトラウマになるほど怖い思いをしたり、台風の日に薄暗い山奥で親の車をパンクさせた時に感じた罪悪感やひとりぼっちの心細さと不安は未だに脳裏をよぎりますが、それでも悪天候の日に行くべきではないところに行くべきではないということや旅に危険はつきものだということを改めて知り、そしていい教訓ともなったため、色々な意味でいい旅だったと思います。
これでとりあえず現時点で自分が知っている史跡を全て回ったか・・・と思っていたら、14日に墓参りに行った帰り、父が運転する車で外を眺めていたら見つけてしまいました、字比羅夫で新たな石碑を(笑)。
15日には札幌へ戻ってこなければならなかった関係もあってその字比羅夫の石碑はまだ未確認のため、ぜひ次に倶知安町へ帰省した時にはそこの調査もしようと思っています。
そして、もしかするとそれ以外にも僕の知らない史跡がまだまだたくさんあるのかもしれません。
やっぱり史跡巡りは深いですねぇ〜!

〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)
http://importants.jugem.jp/?eid=61(倶知安町のんびり旅【その4】)
http://importants.jugem.jp/?eid=73(倶知安町のんびり旅【その5】)
http://importants.jugem.jp/?eid=90(倶知安町のんびり旅【その6】)
http://importants.jugem.jp/?eid=162(倶知安町のんびり旅【その7】)
http://importants.jugem.jp/?eid=178(倶知安町のんびり旅【その8】)
http://importants.jugem.jp/?eid=233(倶知安町のんびり旅【その9】)


倶知安町のんびり旅【その9】

本家にて」・「束の間のドライブ」・「1年半振りの再会」でそれぞれ話題を出しましたが、先々週の11日の夜から15日まで僕は久しぶりに倶知安へ帰省しました。
3年振りの本家、高校時代の友達とのドライブ、1年半振りの幼馴染との再会・・・本当に楽しく、充実した時間でした!
一方で僕は去年の8月以来、実に1年振りに史跡を回ってきました。
実は去年の8月に史跡を回った時点で残っている史跡は2つのみとなっていました。
今回、その1つを回ってこようと思っていましたが、何と僕が持っている倶知安の資料にも載っていない史跡が2つもあることを数ヶ月前に知ったため、合計4つを回ってきました。

〈比羅夫〉
史跡巡りも兼ねて久しぶりに比羅夫を探検してきました。
比羅夫・・・ほんの数年前までは本当に殺風景で昔ながらの田舎町といった地域でしたが、ここ数年で外国からの移住者もどっと増え、あっという間に外国の田舎町の一角と変わらない風景となりました。
全文英語で書かれたバス停や看板もあります。
しかしながら、山々に囲まれた地域には変わりなく、空気も美味しく、時々足を踏み入れることでちょっとした外国観光的な気分を味わうこともできるため、個人的には今の比羅夫も好きです!
多くの洋風建築が立ち並ぶ中、昔ながらの小さな居酒屋などもあります。
 
 
 
 

ひらふ高原中央公園
この公園へは初めて行きました。
ニセコ国際ひらふスキー場の麓にある公園でした。
事前にだいたいの地図を調べていったのですが・・・これが迷った迷った(笑)。
“高原”というくらいなので大きな公園かと思えばそれほど大きくなく(笑)。
自然いっぱいのとてもキレイな公園でした。
 
 
 


また、この公園内には石碑があり、表には小説家・林芙美子の短歌、裏にはニセコ国際ひらふスキー場の歴史が書かれています。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:短歌「青き山なり ニセコの山は 吾心また青々 心涼しむ」(表)、右:スキー場の歴史(裏)

■碑文(林芙美子の短歌)■
作家林芙美子が、倶知安を訪れたのは昭和九年五月二十五日である。ニセコの風光が大変気に入り、その印象を色紙に残して二十八日札幌に向かった。
のち倶知安を舞台に「七つの燈」、「田園日記」などの小説を書いている。

■碑文(ニセコ国際ひらふスキー場の歴史)■
ニセコ国際ひらふスキー場三十年の歩み

昭和三十六年十二月 ニセコアンヌプリの初リフトがひらふコースに建設
               「ニセコひらふスキー場」と命名
               比羅夫駅より国鉄バス運行
 〃 三十七年  三月 第四十回全日本スキー選手権アルペン大会開催
               電話が架設される
 〃 三十八年  七月 ニセコ積丹小樽海岸国定公園の指定
 〃 三十九年  三月 スイス・サンモリッツ市と倶知安町との姉妹都市提携決議
 〃 四十二年十二月 ナイタースキー始まる
 〃 四十三年十二月 ひらふスキー場に初の雪上車導入
               スキー場内電気が北電化
 〃 四十五年  二月 第二十五回冬季国体スキー競技会開催
         十一月 「ニセコ国際ひらふスキー場」と命名
 〃 四十七年十二月 倶知安町「スキーの町」宣言
 〃 五十九年十二月 ゴンドラ運行
 〃 六  十年十二月 四人乗り高速リフト運行
 〃 六十一年  二月 第四十一回冬季国体スキー競技会開催
平成  三  年十二月 スキー場地区内飲料水を羊蹄山麓の水源に切り替え

平成四年十一月 建立

ニセコ国際ひらふスキー場開設三十周年
ニセコ積丹小樽海岸国定公園指定三十年
記念碑建立実行委員会
 会長 浦中政直

建立協力者
 北海道・倶知安町・サンモリッツリフト株式会社・ニセコ高原観光株式会社・山田地区有志・ニセコ国際ひらふスキー場振興会
 中野隆司書
  号歸山

〈東林寺〉
ここは我が“ふるさと”のひとつです。
どういうことか?
東林寺では幼稚園を経営していますが、その倶知安幼稚園が僕の出身園です。
倶知安幼稚園へは2年間通い、幼少期にはよく境内でも遊んだものです。
でも、境内に石碑があることを知ったのはほんの数ヶ月前という(笑)。
その石碑に書かれているのは歌人・九條武子の短歌が書かれた石碑があります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:短歌「夕べせまる防雪林のうすやみに ましろくたかき山うどの花」、↑右:碑文


■碑文■
 九條武子(一八八七‐一九二八)は京都西本願寺に二十一代宗主大谷光尊(明如上人)の次女として生まれ、九條良致に嫁いだ。
 西本願寺仏教婦人会長として活躍するとともに、佐佐木信綱に師事して歌人としての名も高かった。歌集に「金鈴」「薫染」、歌文集に「無憂華」がある。
 札幌市で開催される仏教婦人会北海道連合大会に出席するため大正十五年八月十七日の夕方汽車で倶知安驛を通った。
 碑の歌は、この時の印象を詠んだ一首で、「無憂華」にのっている。

父喜八郎 母滿寿代の遺志と東林寺のご厚意により平成七年九月十九日建立
 武内一男
    堂行
    怜子

〈高砂水源地〉
ここの石碑はずっと気にかかっていたのですが、諸事情でなかなか行くことができませんでした。
正直言うと“関係者以外立ち入り禁止”となっているので・・・(苦笑)。
高砂水源地には僕が小学4年生の時に遠足兼社会科見学で行ったことがありました。
なので、今回12年振りに水源地へ行きました。
倶知安では今でこそ当たり前のように水道水を飲むことができ、羊蹄山から湧き出た水は日本一の水といわれ、北海道遺産にも指定されています。
しかしながら、かつて水道のない時代には地下水を利用するものの水質が悪く、町民達は飲み水に大変苦労したそうです。
1953年、ようやく倶知安に水道を通すことが決まり、工事が施されました。
倶知安初の水源地、高砂水源地に記念碑が建立されています。
 

〈恵暁寺〉
ここの寺院には母方の祖父母、曽祖父母が眠っており、毎年お盆にお参りしに行っています。
境内には伊井億右衛門の顕彰碑あり、1976年6月13日に恵暁寺檀家一同によって建立されたものです(原石寄贈:浦中政直、三世住職・松下求書)。
伊井億右衛門は倶知安町内にある道内唯一のオブラート製造メーカー・伊井化学工場の創設者です。
伊井化学工場のオブラートの製造量は日本一を誇ります。
旭ヶ丘公園には伊井億右衛門の銅像が建立されています。
詳しくは「倶知安町のんびり旅【その2】」・「倶知安町のんびり旅【その3】」を参照のこと。


〈感想〉
今回、1年振りに史跡巡りをしてきました。
上記の4ヶ所を回り終えたことで倶知安町内にある史跡を完全制覇しました!
やったぁ〜!!
・・・と言いつつももしかするとまだ僕の知らない史跡が倶知安のどこかにあるのかもしれません。
狭いようで広い倶知安。
開拓から120年経つ倶知安。
まだ知られていない歴史がたくさん眠っているであろう倶知安。
本当に倶知安は奥深いです!
もちろん、ここで史跡巡りが立ち止まるわけもなく、まだ解読していない碑文、何のために建立されたのか分からない石碑など、後ほど倶知安風土館や役場に問い合わせながら調べ、いつか冊子に倶知安の史跡をまとめられたらと思っています!!

〈おまけ〉
高砂水源地へ車で向かう際、何と道路に馬が(笑)。
向かいが農家だったため、恐らくそこから放れた馬だと思うのですが・・・。
可愛かったです!



〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)
http://importants.jugem.jp/?eid=61(倶知安町のんびり旅【その4】)
http://importants.jugem.jp/?eid=73(倶知安町のんびり旅【その5】)
http://importants.jugem.jp/?eid=90(倶知安町のんびり旅【その6】)
http://importants.jugem.jp/?eid=162(倶知安町のんびり旅【その7】)
http://importants.jugem.jp/?eid=178(倶知安町のんびり旅【その8】)


倶知安町のんびり旅【その8】

先週の28日、「9年振りの再会」・「家族とともに過ごす時間」で述べたように倶知安に帰省し、昨日の昼に札幌に戻ってきました。
祝・米壽」で述べましたが約2週間前にも倶知安に帰省しましたが、その時に大量にあった残雪もほとんどなくなり、ようやく倶知安でも春が訪れたという実感が湧きました。
今回は30日と2日に自転車で八幡に行ってきました。
倶知安町開基120周年」で述べましたが1984年3月に廃校となった倶知安最初の学校である八幡小学校の跡地の近くに谷地があり、そこへ行きました。
何をしに行ったかと言えばヤチブキを採りに行きました。
ヤチブキとは山菜であり、その名のごとく谷地に生えるフキのことです。
フキの一種ですが、玉子とじやお浸しなど、ホウレンソウと同じような調理に用いることができます。
谷地にはたくさんのヤチブキが生えており、育ってキレイな黄色い花を咲かせているものもありました。
また、ミズバショウもたくさん咲き誇っており、とてもキレイな眺めでした。
 
 
 

↑僕が採ってきたヤチブキ

八幡の谷地へ行き帰りする時、百年の森公園という公園の前を通ります。
公園と言っても本当に森に道がついているだけです。
僕が小学3年生の時に社会の授業で百年の森へ行き、時を同じくして僕と母と弟2人で自転車で百年の森まで行きましたが、それ以来行っていないため、もうかれこれ13年も行っていません。
以前に聞いた話だと100年以上前からある樹木が立ち並ぶことから百年の森と呼ばれているそうです。
様々な花々をその季節ごとに見ることができるため、また時間を見つけて行ってみたいものです。
写真はミズバショウやフキノトウが生え渡る小川を写しました。


ヤチブキもたくさん採り、写真もたくさん撮り、自宅に帰る前、僕はある場所へ向かいました。
個人的にこの時期になると感じることですが、「鯉のぼり」で述べたように近年鯉のぼりを飾る家庭が少なくなりましたね。
まだ地元ではちらほら見かけますが、都会ではほとんど見かけません。
個人的に5月に生まれたこともあり、昔から鯉のぼりの季節には愛着もあり、とても好きな月です。
実家でも僕達が大きくなったこともあり、数年前から飾らなくなり、少し寂しい気もします。
しかしながら、毎年倶知安で確実に鯉のぼりを見ることができるところがあります。
それは町内会の鯉のぼりです。
今年も風になびかれ、とても気持ち良さそうに鯉が泳いでいました。


今回も充実した日々を倶知安で過ごしてきました。
今度いつ帰省するか分かりませんが、行ったことのない史跡、上記しましたが百年の森など、たくさん行ってみたいところがあります。
ぜひ、次回史跡などを回ってみたいと思っています。

〈おまけ〉
その1

タイトルは「草原に咲く1輪の花」(笑)。
我ながらいい写真が撮れたと思います。
30日に八幡へ行った帰りに僕の出身校の東陵中学校の近くの場所で撮りました。


その2
1日に河川敷へ我が家の愛犬・ロンの散歩に行った時に撮影した羊蹄山とロン。
ロン、可愛い(笑)!



その3
2日に八幡で撮った夕焼け空。
なかなか見れない景色だと思います。


その4
この時期、実家では山菜三昧!
上記したようにヤチブキ、そしてアイヌネギやウドも採れるようになってきました。
山菜料理、本当に最高です!

↑2日の昼食(僕が採ってきたヤチブキで作ったお浸し)

↑2日の夕食(ごはん、ワカメと豆腐の味噌汁、トンカツ、アイヌネギ・ウド・アスパラ・シイタケの天ぷら、アイヌネギの酢味噌和え、フキの炒め物、ヤチブキのお浸し)

〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)
http://importants.jugem.jp/?eid=61(倶知安町のんびり旅【その4】)
http://importants.jugem.jp/?eid=73(倶知安町のんびり旅【その5】)
http://importants.jugem.jp/?eid=90(倶知安町のんびり旅【その6】)
http://importants.jugem.jp/?eid=162(倶知安町のんびり旅【その7】)


倶知安町のんびり旅【その7】

先週、「祝・米壽」で述べましたが僕の祖母が数えで88歳、米寿を迎え、そのお祝いを家族全員でするために久しぶりに地元・倶知安へ帰省してきました。
13日の夜に帰省し、17日の朝に札幌へ戻ってきました。
倶知安に帰ったのは1月以来でした。
それにしても・・・雪が多い(笑)!
今年は過去10年以内で一番雪が降った年だったそうです。
豪雪地帯・倶知安は少し暖かくはなりつつもまだまだ雪をたくさん残していました。
本当は色々と行きたいところもあったのですが、もう少し雪が解けてから行くこととし、今回は実家の愛犬・ロンの散歩がてら近所や河川敷を回ってきました。

祖母の米寿のお祝いに祖母の住む洞爺湖へ行き、倶知安へ戻ってきたのは17時半過ぎのこと。
待ちわびた散歩を「早く早く!」と言うかのようにロンは吠えて飛び跳ねるのだった。
僕がロンと散歩に行くのは恐らく2〜3年振りのこと。
早速、近所を回って歩き、最後は河川敷へ。
夕日の映える羊蹄山、夕焼け空がとても美しかった。
 

辺り一面雪景色。
春はまだまだ遠し。
しかし、尻別川は止まることなく、凍ることなく、淀むことなく流れ続ける。
流水不腐。
 

帰り際に撮った1枚。
住宅が建ち並び、それを包み込む夕焼け空。
これもまた美しかった。
ロンも美しい夕焼け空に見とれて立ち止まる(笑)。
・・・と言うよりかは僕が写真を撮るために立ち止まり、ロンも強制的に立ち止まらされている(爆)。
 

札幌へ戻る前日、自宅近くでふきのとうを見つけた。
自宅の畑にも小さな小さな花の芽が生えてきた。
雪は残れども春はもうすぐそこだ。
 


・・・と今回は物語風にしてみました(笑)。
今度、倶知安に帰った時、また新たに見つけた史跡を訪ねてみたいと思います。

〈おまけ〉
その1

河川敷の排雪山で遊ぶロン。


その2
北海道テレビ放送(HTB)で放送されているイチオシ!の「世界に一つだけの味」のコーナーで以前倶知安のラーメン屋・なかまが紹介されました。
なかまへは数年前に一度僕も行ったことがありましたが、テレビで紹介されたこともあり、久しぶりに行ってみることにしました。
注文したのはWチャーシュー麺。
食べても食べてもチャーシューがなくならない!
・・・それくらいたくさんのチャーシューが入っているラーメンです!!
僕は醤油味を頼みましたが、スープも麺も絶品でした。
チャーシュー好きの方にはおすすめの一品です!
ちなみに、なかまはルー大柴さんも来店したことのある店です!!


〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)
http://importants.jugem.jp/?eid=61(倶知安町のんびり旅【その4】)
http://importants.jugem.jp/?eid=73(倶知安町のんびり旅【その5】)
http://importants.jugem.jp/?eid=90(倶知安町のんびり旅【その6】)


倶知安町のんびり旅【その6】

過ぎし日の思い出第13弾!
9月18日、保育園では運動会が開催されました。
その代休として24日が休みとなり、23・24・25日が3連休となりました。
23日に専門学校時代の友達のH・Nくんと一緒に北海道私立幼稚園の就職活動フェアへ行き、就職活動フェアが終わった後、僕は久しぶりに実家へ帰省しました。
今回は史跡は訪ねませんでしたが、小学4年生の時、ちょっとした冒険心で訪ねた河川敷沿いから山の方へ続く道を11年振りに訪ねてみました。
いざ、河川敷沿いの道を出発!
秋の花々や晴れ晴れとした青い空が映える尻別川に見送られながら自転車で舗装も何もされていない砂利道を走り、10〜15分すると周囲が農家しかない道路に出ました。
「サイクリングコースではありません」と書かれた看板が立っていました(笑)。
 どうやら、何も知らずに11年前にサイクリングしていたコースは私有地だったようです(笑)。
 
 
 

自宅には食べ頃の野菜がたくさん実り、キレイな花々が咲いていました。
  
 
 

〈おまけ〉
札幌帰省前夜の24日の夕食は僕の一番好きな食べ物、カレーライスでした!
久しぶりに母の作ったカレーライスを食べ、とても美味しかったです!!
トマトはご近所さんにいただいたものであり、これもまたとても美味しかったです。


〈リンク〉
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http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
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http://importants.jugem.jp/?eid=73(倶知安町のんびり旅【その5】)


倶知安町のんびり旅【その5】

去る先々週の12日、就職以来2ヶ月以上振りに地元・倶知安へ帰省しました。
13日から16日までの4日間お盆休みをいただくことができ、週休1日制の保育園ということもあり、なかなか倶知安へ帰省する機会がないため、気持ちのリフレッシュと骨休めのために帰省してきました。
その間、お馴染み?となった倶知安の史跡巡りもしてきましたので紹介したいと思います。

〈旭ヶ丘霊園〉
お盆だからというわけでもありませんが、旭ヶ丘にある霊園の慰霊碑を訪ねました。

倶知安隧道遭難死者慰霊碑
明治37年10月、倶知安に鉄道が開通しました。
トンネル工事で亡くなった方々の慰霊碑が旭ヶ丘霊園内にあります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「遭難死者追悼之碑」

■碑文■
本道の開拓時代にあって鉄道の敷設は先人達の筆舌に尽し難い辛苦があった。間組は明治35年6月最大の難工事であった倶知安隧道(3,200吹)を請負い、全社の力を結集し、施工の進捗に努め37年5月竣功、同年10月函館、小樽間の全線開通をみた。当工事の建設に従事し、散華した殉職者は10名におよんだ。この導き霊の追悼の碑は明治37年4月に恵暁寺境内に建立されたが大正12年災害に遭い、以後幾星霜風雪に耐えて昭和45年倶知安町役場のご尽力により、ここ羊蹄山を望む旭ヶ丘霊苑に安置された。先人の労苦を偲び霊を弔い、ここに建立の趣旨を記すものである。 昭和54年4月1日
 創業90周年にあたり
  株式会社 間組 札幌支店 支店長 音羽敬三

布袋座遭難者慰霊碑
昭和18年3月6日、劇場・布袋座で起こった火災により、200人を超える死者を出しました。
この亡くなった方々の慰霊碑が上記同様、旭ヶ丘霊園内にあります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「布袋座遭難者慰霊碑」

■碑文■
 昭和十八年三月六日春宵 倶知安産業組合慰安映画会が布袋座で催され 楽しく映画が始まった一瞬 フイルムに引火した業火と 丈余の残雪に 入場者は出口をふさがれ さかまく火焔に逃げ場を失ない あたら尊い生命を終られました
 ここに昭和四十年 二十三回忌を期して二百八名の霊を追悼し これを建立する
 昭和四十一年八月建之
 建立者
  遺族会 倶知安町農業協同組合
  倶知安町仏教会

〈工業発祥の地〉
明治26年、マッチの軸木を製造する燐寸軸木工場が創設され、倶知安の工業が発祥しました。
翌27年には同様の工場、縫部製軸所が創設されました。
軸木を岩内に運ぶために作られた道路は縫部道路と呼ばれ、工業内に作られた私塾は倶知安最初の教育所でもありました。
しかし、縫部製軸所は明治31年に火災で焼失しました。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「工業発祥の地」

■碑文■
明治26年鈴木大吉民、このあたりの白楊樹を原料とし水力による燐寸軸木工場を創設、次いで翌27年大崎亀吉、縫部兼次郎民等ここに同様の工場を設けた。これによって2年前入植した人々の現金収入の道も拓け、入植者も跡を絶たず大いに開墾がすすんだ。
 昭和五十年十一月三日
  倶知安町文化財保護調査委員会
   委員長 上野留蔵

〈旭ヶ丘公園〉
今までもたくさん紹介してきた旭ヶ丘公園です。
今回は旭ヶ丘公園内にある三十三観音像を訪ねました。
大正12年、西国三十三箇所を巡礼できない人々のために旭ヶ丘公園内に建立されました。
三十三観音像の文字通り、33体の観音像が存在することでしょうが、今回僕が見つけられたのは12体のみでした。
 
 
 
 
 
 

〈感想〉
今回、上記の通り、就職以来2ヶ月半以上振りに倶知安へ帰省しました。
久しぶりの倶知安、久しぶりの実家・・・なかなか帰りたくても帰れなかった場所だけに本当に居心地が良かったです。
4日間なんて本当に束の間であり、1週間、2週間、1ヶ月・・・と言えば切りがありませんが、もっと倶知安にいたかったです。
やはり、生まれ育った地元が一番ですね。
また、今まで訪ねたことがなかった史跡も訪ねることができ、倶知安の歴史の奥深さを感じています。
しかし、まだまだ訪ねたことのない史跡はたくさんあると思いますので、また倶知安の本を読み、行ったことのない場所へ行ってみたいと思います。
また、次に帰れるとすれば、来月の23日〜25日に3連休があるため、その時だと思います。
その日を楽しみに、また明日からも仕事に取り組んでいきたいと思います。

〈おまけ〉
その1

13日、冬期から6月中旬まで休業中だったハンバーガー屋へ久しぶりに行ってきました。
外国人が経営しており、本場の味が楽しめ、店内も外国風の造りでとてもシャレています。
ダブルベーコンチーズバーガーというのを頼み、ドリンクつきで価格は1600円と高価格でしたが、味は価格以上の美味しさでした。
高校時代は高価格に手が出ず、パテ1枚のハンバーガーしか食べられませんでしたが、ようやくダブルを食べることができました(笑)。




その2
13日、洞爺湖から倶知安にお寺・お墓参りに来た祖母が実家へ久しぶりに来ました。
その場にいた父や母も含めみんなで1時間ほど話し、父と2人で祖母を洞爺湖まで送りに行きました。
その途中、蘭越の病院に入院する親戚の祖父を訪ねました。
今まで農家で働いていましたが、90歳を過ぎて農家もできなくなり、去年から病院に入院したそうです。
父が祖父に「うちの長男」と僕を紹介するまで、祖父には分かってもらえませんでした。
就職したことを伝えると「とにかく頑張れや」と言って、普段何もなければ寝たきり状態となり、少なくなった力を振り絞って僕の手を握ってくれました。
帰り際、「また来てな」と言っており、ぜひまた時間を見つけて行きたいものです。
病院の近くのひまわり畑がとてもキレイでした。



その3
14日、前日に岩内で働く弟が帰って来て、家族5人でお寺・お墓参りに行って来ました。
僕と弟がそれぞれ倶知安町外で就職し、なかなか家族5人で集まるのが難しい中でも、家族全員でご先祖様に手を合わせることができ、良かったです。
午後には岩内に住む親戚の伯父、伯母、従兄弟のお兄さんが遊びに来て、2時間ほど時間をともにし、とても楽しかったです。
次、みんなで集まれるのはいつなのかなぁ・・・。

〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)
http://importants.jugem.jp/?eid=61(倶知安町のんびり旅【その4】)


倶知安町のんびり旅【その4】

2ヶ月振りの更新です!
2ヶ月前に初めて社会人となり、本当に様々な厳しさや辛さを感じながら、日々を過ごしています。
今まで気持ちの余裕もなく(今もそれほどあるわけではありませんが)、しばらくブログのことは頭から離れていました。

ってなわけで言い訳はここまでにして、このブログでは御馴染み(?)となった過ぎし日の思い出第1弾!
就職が決まった6月1日、住民票の移籍や通帳の住所変更、携帯電話の機種変更などもあり、地元の倶知安へ帰省しました。
6月2日に様々な用事を済ませつつ、時間を見つけて自分の訪ねたことのなかった倶知安の史跡を訪ねましたので、また紹介します。

〈レルヒ中佐〜レルヒ公園&旭ヶ丘公園〜〉
倶知安町のんびり旅【その3】」で紹介したレルヒ中佐を記念して造られたレルヒ公園にレルヒ中佐の像があり、それは小さい頃から知っていましたが、何と冬場はスキー場である旭ヶ丘公園にもレルヒ中佐について書かれた石碑があることを知り、今回訪ねてきました。
せっかくなので、レルヒ公園と旭ヶ丘公園のレルヒ中佐の像の碑文を載せますので、レルヒ中佐について、倶知安のスキーの歴史について知っていただければと思います。

レルヒ公園

↑「レルヒ中佐之像」

■碑文■
由来

 オーストリア国武官テオドール・フオン・レルヒ中佐は、明治四十三年日本に派遣され二年に亘って我が国陸軍の将校達に一本杕によるスキーの指導を行った。
 明治四十五年四月十五日に旭川市第七師団将校等を伴い来町したレルヒ中佐は、十六日に旭ヶ丘付近にて町民にスキー練習を公開し、翌十七日には、エゾ富士と言われる秀峰羊蹄山(一八九三M)にスキー登頂を挑んだ
 この登頂には、一行十名の外に町内の高山万次郎、嶋田賢三、山根長松が道案内として同行したが、急峻と零下三十度の酷寒、しかも視界零に近い猛吹雪に見舞われる中で九時間余を費やして登頂に思考し全員無事帰着した。
 「スキーの町」を宣言する倶知安町は、昭和六十一年二月に本町において開催される代四十一回国民体育大会冬季大会スキー競技会を前にして、レルヒ中佐一行の壮挙を記念するとともに、日本文化を理解し、生涯を通して日本をこよなく愛したレルヒ中佐に、深い敬慕の念をもって記念公園を建設、あわせて有志一同は浄財を募ってレルヒ像を建立し、我が国「スキーの父」の功績を永遠に讃えることにした。

 昭和六十一年十一月十五日

旭ヶ丘公園

↑「レルヒ少佐」

■碑文■
明治四十五年四月十六日オーストリア武官テオドール.フォン.レルヒ少佐は第七師軍将校八名を率い軍校スキーをもって羊蹄山の冬山登山を試みこの地に於てスキー練習を行い翌十七日羊蹄山登頂を決行した
この歴史を永く後世に伝えるため町制施行五十周年記念事業としてこれを建つ

倶知安町

〈円融寺〉
明治30年3月、服部大融が比羅夫に真宗大谷派の説教所を開所し、翌31年3月1日に子ども達の教育のために説教所を開放して慈民教育所を開設しました。
この説教所が現在の円融寺です。
また、「倶知安開基120周年」で書きましたが、慈民教育所はのちの比羅夫小学校です。
この円融寺の境内に加賀団体の入植記念碑があります。
加賀とは石川県の都市であり、石川県からの入植者の団体が開拓したことにちなんで加賀団体と呼ばれています。
ちなみに、空知管内の長沼町には倶知安と同様に石川県からの入植者による開拓にちなんでそのまま加賀団体という地名が存在し、倶知安にもまた、山梨県からの入植者による開拓にちなんで山梨という地名が存在します。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「崇徳碑」

■碑文■
碑文

此地文余ノ熊笹欝蒼タル大森林ニ蔽ハレ入墾両年ニシテ始メテ羊蹄ノ山容を看ル

明治二十九年石川県能美郡長野村寺井野村一帯は手取川の水禍で荒廃した八反田角太郎を総代とする加賀団体村民三十余人は流氓の宿命に甘んぜず翌三十年二月未知の辺境たる此の地すなわち羊蹄山麓下ソスケに入植した白雪皚々朔風破膚のこの処女地に当初仮小屋三戸のみ食糧をはじめ困苦は表現を絶した翌年古里に在った二十二戸も参加した字義通り風雪に挑んだ開拓の序章は冒頭に録した簡明勁烈な三行が最もよく伝える開拓者精神は米国だけでなく各国にある日本人もまた明治以来北海道開拓に鮮烈にその精神を発揮した 米国の草の根民主主義は西部開拓の過程で確立された八反田角太郎先導下のこの一団は自助と互助による規律協和と円融を恵む宗教により日本の根生い民主主義を育てたこの一団に対する宮辺の援助は後代に比して実に僅少入植第一年の収穫は麦豆反当たり四斗に過ぎなかった 児孫のために美田を買わず先人は美田を創作し豊沃を後代に遺した元来祥語で文化とは耕やすことを言うすなわち先人は文化を創造したのであるこの偉業はまさに平和な民族発展の道標である開道百年に際し建立したのが父祖明治人の留魂の碑である

昭和四十三年八月十五日
北海道知事 町村金五書

〈岩尾別開基100周年記念碑〉
岩尾別の開基100周年を記念した石碑を母の職場への行き途中に見つけました。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「拓秀峰麓郷」

■碑文■
岩尾別開基百年碑

 この地岩尾別は、明治三〇年代はじめ、成鷯ー 壁抻蓋)、武岡豊太(兵庫県)が創設した二農場及び個人入植者により開拓された。
 清洌な水と豊かな川の幸、四季それぞれの山の幸に恵まれてはいるが、丘陵と澤深い岩尾別原野で、つましい開拓小屋、粗衣、粗食に耐え、地を覆う竹・熊笹・林立する巨木を切り拓き、さらに酷寒、猛暑の自然と闘った開拓先人の労苦は想像を絶した。
 曽って炭焼く煙がたなびき、石切る者がだましたこの里も、観光地の玄関先として様相を一変した。
 ここに地域開発百年にあたり、故里創成の偉業を賛え、限りない未来に夢を託して之を遺す。

平成七年七月
倶知安町長 伊藤 弘書

〈大仏寺〉
旭ヶ丘公園の近くにある大仏寺の天井画が倶知安町指定有形文化財に指定されており、そのことについて書かれた石碑が大仏寺の境内にあります。
奇しくも大仏寺には「倶知安町開基120周年」で書いたように僕の大伯母(祖母の姉)が眠っており、お盆のお寺参りの時にでも見る機会があれば見てみたいと思います。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:「われ鍬をもて山水を画おん」、右:碑文


■碑文■
初代住耺斉藤忍隨気宇闊達仏学術絵画に秀す本堂天井画は倶知安町文化戝第1号に指定した
此処から後志原野に俯瞰し大悟す 喝

文筆者 倶知安町文化戝保護調査委員会
委員長 上野留蔵

昭和47年11月3日 倶知安町

〈後志支庁〉
後志支庁の敷地内に後志高等国民学校の記念碑があります。
後志高等国民学校は大正11年に倶知安に建てられた私立校です。
本来であれば碑文を載せて詳しく説明したかったのですが、読み取れない部分も多々あり、載せることができませんがご了承下さい。

↑「後志高等国民学校記念」

〈倶知安役場〉
倶知安役場の前に倶知安町民憲章が書かれた石碑があります。
倶知安町民憲章を載せるとともに、詳しい説明は碑文を以って代えさせていただきます。
私事ですが、札幌へ住民登録をした現在も倶知安への郷土愛を持ち続け、自称倶知安町民でもあることをこれからも心に留めておきたいと思います。


倶知安町民憲章

一 仕事を工夫し力をあわせ豊かな町をつくりましょう
一 郷土を愛し教養をたかめ文化の町をつくりましょう
一 自然をいかし環境をととのえ美しい町をつくりましょう
一 きまりを守り親切に助けあい明るい町をつくりましょう
一 未来に希望をもち若さにあふれた伸びゆく町をつくりましょう

■碑文■
輝く一九七〇年一月に郷土躍進の町民指標として町民憲章が制定せられた
この意義を記念し之の碑を建つ
 協賛 倶知安青年会議所
 題字 北海道知事 町村金五
 昭和四十五年六月十四日
  倶知安町長 吉田冨美雄

〈感想〉
5月15〜22日にかけて倶知安に1週間滞在し、2週間も経たないうちに就職先が決まり、中9日でまた倶知安に帰省することになろうとは予想もしませんでした。
倶知安に帰省した目的は上記したように、住民票の移籍や通帳の住所変更といった就職に関わることをするために帰省したため、かなりかけ足ではありましたが、自分の訪ねたことのなかった史跡も訪ねることができ、良かったです。
社会人となってなかなか倶知安に帰省する時間もなかなかありませんが、機会を見つけてまた帰省しようと思います。

〈おまけ〉
その1
倶知安町のんびり旅【その3】」で紹介した倶知安にある小さなファストフード店的な店・たこ焼きいっちゃんのたこ焼き、フライドチキン、フライドポテトです。
僕の就職決定報告も兼ねて行って来ました。
店主の方が「少ないけどフライドチキンとフライドポテトはタダでええわ!就職祝いや!!」と言って下さり、何とたこ焼きの250円だけ払い、他はタダにしてくれました!
何ともありがたかったです(涙)!!
ぜひ、また倶知安に帰省した時に行きたいです。


その2
旭ヶ丘公園に芝桜が咲き始めていました。
これがあと数週間もすると山全体が芝桜の桃色で埋め尽くされ、とてもキレイです。
芝桜祭りというのもあります。
僕は行ったことがありませんが(笑)。


その3
旭ヶ丘を登り、約15分後に頂上に辿り着きました。
あいにくの曇りで残念でしたが、恐らく中学3年生の時にスキーをしに旭ヶ丘に行って以来、久しぶりに倶知安全体を見渡しました。


〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)


倶知安町のんびり旅【その3】

去る5月15日、冬休み以来に地元・倶知安へ帰省しました。
それは17日に運転免許更新の講習があり、僕の住民票はまだ倶知安のままのため、倶知安で講習を受けるために帰省してきました。
運転免許を取得して早3年・・・。
運転免許取得後、専門学校へ通うために倶知安から札幌へ移住したことから、ペーパードライバーでもありませんが、そんなに数多く運転しないまま現在に至っています。

ところで、運転免許の講習が終わったらすぐに札幌へ戻ろうと思っていましたが、冬休み以来の倶知安、さらに札幌−倶知安間のそれほど安くない交通費がネックとなってなかなか帰る暇のない倶知安でやりたいことも様々あり、結局22日までの1週間倶知安にいました。
その間、久しぶりに車や自転車で倶知安の様々な史跡巡りや自然巡りをしてきました。
今回、行ってきたところを紹介していきます。

〈東陵中学校近辺の自然〉
最初に、東陵中学校は僕のプロフィールにもあるように、僕が通っていた中学校です。
その近くに様々な花、谷地には水芭蕉やヤチブキの花が咲いていました。
 
 


〈伊井化学工場〉
伊井化学工場は「倶知安町のんびり旅【その2】」でも書いた通り、道内唯一のオブラート製造メーカーです。
現在、日本にはオブラート製造工場が5つしかなく、伊井化学工場はその5つのうちの1つであり、オブラート製造量は日本一です。
「伊井オブラート」というのをみなさん見聞きしたことや使ったことはありませんか?
結構有名です。
また、僕が小学4年生の時、社会の授業で伊井化学工場の職員の方が小学校に来て話を聞かせて下さり、色々なオブラート(市販されているオブラートや製品加工する前の大きい正方形状のオブラートなど)を見せて下さり、今思えばとても貴重な体験だったと思います。
その後、「オブラートを作って明日持って来ましょう」という宿題が出され、放課後に何人かで友達の家に集まり、試行錯誤しながらオブラートを作りました。
最初、でんぷんに冷水を入れて何度かき混ぜても水とでんぷんが分離し、どうしたらいいのか分からずにみんなで考えていたところ、友達のお母さんがぬるま湯を使ってでんぷんが固まったものを作って下さり、冷水ではなく温かいお湯を使うことででんぷんが固まるということを知り、各自帰宅してオブラートを作りました。
個人的にあみ出したオブラートの作り方はラップにでんぷんがき(でんぷんに熱湯を入れ、透明状の液体になったもの)を薄く塗り、それを乾かし、乾いたものを剥がすと出来上がりです。
ちなみに、上記したようにオブラートの原料はでんぷんであり、父がでんぷん工場で働いているため、でんぷんは僕が持参し、先生も含め、クラス全員に配ったように記憶しています。
特に小学生の時など、「何か自分が活躍したい!自分が!!」という気持、みなさんもありませんでしたか?
オブラートの原料がでんぷんということも父の仕事柄、クラスでは唯一僕だけが知っており、でんぷんやオブラートに関する授業をやっている時、先生に質問されたことに答えられたのはほとんど僕だけであり、僕はヒーローあるいはもう1人の先生的な感覚でした。
とても楽しかったのを覚えています。
また、伊井化学工場の近く、下記の旭ヶ丘公園の近くに伊井化学工場の創設者・伊井億右衛門の像があります。
 
↑左:伊井化学工場、右:「伊井億右衛門翁之像」

〈二世古酒造〉
上記の伊井化学工場の近くにある、大正5年創業の酒屋です。
僕はそれほどお酒を飲むわけでもなく(2ヶ月に1〜2回飲むか飲まないか)、強くもないため、二世古酒造のお酒を飲んだことはありませんが、とても美味しいという評判を幾度も耳にしたことがあります。
また、倶知安によしのみサンクスというサンクスがありますが、そのサンクス限定で二世古酒造のお酒が販売されています。
お酒をそれほど飲まない僕が言ってもあまり説得力ありませんが、お酒好きの方には二世古酒造のお酒をお勧めします!
詳しくは二世古酒造のホームページをご覧下さい。
http://www.nisekoshuzo.com/

↑二世古酒造

〈旭ヶ丘公園〉
旭ヶ丘公園は去年のゴールデンウィークにも行ってきた公園です。
去年は公園内の石碑を単に写真に撮ってきただけであり、その石碑がどのような理由の下に建立されたのか、石碑に書かれている由来や歴史までには目を配っていませんでしたので、今回さらに深く石碑が建立された理由や倶知安の歴史を深く追求してみたくなり、旭ヶ丘公園を訪ねました。

包丁塚
旭ヶ丘公園の入り口の前に北海道日本料理研究会・倶知安支部創立10周年、社団法人 北海道全調理師会・倶知安支部創立20周年を記念して建立された石碑があります。
碑文が書かれていましたがかなり崩された行書で書かれており、恥ずかしながら僕には読めませんでした。

↑「包丁塚」

旭ヶ丘公園の石碑【その1】
旭ヶ丘公園の入り口に旭ヶ丘公園を示す石碑があります。
昭和11年9月、竹中喜三郎、卯尾治三郎によって建立されたものです。

↑「旭ヶ丘公園」

倶知安町開基50周年記念碑
倶知安町開基50周年を記念し、開拓者の業績を讃え、昭和16年に石碑が建立されました。
碑文が書かれていますが、だいぶ荒れており、読めない部分もありました。

↑「開基記念」

原和一の短歌
下記の短歌は原始林同人・原和一が詠んだ詩です。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます(一部解読不明あり)。

↑短歌「一すぢの太きけむりを立たせつつ 豆からをやく風いでぬまに」

■碑文■
原始林同人
 原 和一略歴

明治三十五年八月七日 山梨県に生る
昭和二十九年倶知安 短歌会を創る
昭和三十二年北海道歌人会委員
昭和四十六年妻松原 葉と歌集「やまかげ」を出版する

※やまかげに載っている、松原葉氏の詩が書かれていますが、行書で書かれており、一部解読不明でした。

昭和四十八年八幡音頭を作詩する
昭和五十年倶知安町教育文化功労賞を受く

昭和六十年五月吉日
 建立 倶知安町文化協会
  主管 倶知安短歌会

旭ヶ丘公園の石碑【その2】
旭ヶ丘公園の入り口とはまた別の場所にあります。
こちらは大正14年9月に建立されました。

↑「旭ヶ岡公園」

廃屋の神社
十和田三十三観音が奉納されたと思われる廃屋の神社(旭ヶ丘公園内に西国三十三霊地を巡拝できない人々のために大正12年に建立された三十三観音像があります)が旭ヶ丘公園内にあります。
 

出雲六社画冥王掌大神
大正15年10月15日に建立された石碑です。

↑「出雲六社画冥王掌大神」

石塔
何の石塔かは詳細不明です。


石川啄木の短歌
詳しくは「倶知安町のんびり旅【その2】」を参照のこと。

↑短歌「馬鈴薯の花咲く頃となれりけり 君もこの花を好きたまふらむ」

〈倶知安駅前〉
石川啄木の短歌

倶知安駅前に石川啄木の短歌が書かれた石碑があります。
この短歌は啄木が倶知安駅を通った時に詠んだ短歌です。
ちなみに、旭ヶ丘公園にある啄木の短歌とはまた別の短歌です。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:短歌「真夜中の倶知安駅に女の鬢の古き痍あと」、右:碑文

■碑文■
 石川啄木が函館から小樽に向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治四十年(一九〇七)九月十四日の午前一時過ぎである。
 啄木はこの時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収めた。
 鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は、実景であったのか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったのかは、定かではない。
 当時の倶知安村は開墾が始まって十五年たったばかりであった。
 駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。
 この夜駅を降りた人たちの見上げた空は、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきた〈すばる〉が輝くまでには、まだすこしの間があった。

タイムカプセル
石川啄木の短歌が書かれた石碑の隣にタイムカプセルだと思われる石碑があります。

↑「『2091年へのメッセージ』 1993.8.7 倶知安町」

倶知安の未来へ
石川啄木の短歌の碑文に書かれていることにもつながってきますが、農耕の星として親しまれてきた昴に関する像が倶知安駅前にあります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑すばるの像

■碑文■
 昴(すばる)は、銀河星団プレアテスの和名で、肉眼で6個見えるところから、連星(むつらぼし)ともいわれ、古くから王者の象徴、農耕の星として親しまれてきました。「すばるの像」は、開拓の鍬が入って100年、農業を基盤とし後志の中心として発展してきた倶知安町の未来の平和と繁栄を、天の川に遊び躍動する6人の子供の像にシンボライズしたものです。

平成5年8月 倶知安町

日本一の水
すばるの像の近くに倶知安のイメージキャラクター・ジャガ太くんの形をした水飲み場があります。
この水飲み場で出ている水は羊蹄山の麓から湧き出ている水です。
とても美味しいです!
詳しくは水飲み場について書かれた説明文を以って代えさせていただきます。
ちなみに、国際都市倶知安ならではですが、水飲み場について書かれた説明文は表は日本語、裏は英語で書かれています。

↑水のみ場と左記について書かれた説明文

■説明文(表)■
この水は羊蹄山(えぞ富士)の麓から湧出するおいしい水です
四季を通して変わらない水温でまろやかな味わいは「日本一の水」といわれています

倶知安町のキャラクター「ジャガ太くん」
特産品のじゃがいも・雪の羊蹄山・スキーのまち
そして躍進する くっちゃん を表しています

■説明文(裏)■
THIS WATER, WHICH WE BELIEVE THE BEST WATER IN JAPAN, COMES FROM MT. YOTEI.

PLEASE TRY SOME WITH HIGH REGARD FOR MT. YOTEI, HEAY SNOW, AND OUR PEOPLE WHO BROUGHT THE WATER TO US.

〈半月湖畔自然公園〉
半月湖畔自然公園は羊蹄山の麓にある公園です。
個人的には小学5年生の時に遠足で行きました。
僕の通っていた倶知安小学校から歩いて片道8キロ近くあり、翌日の筋肉痛が半端なかったのを覚えています。
今回、小学5年生以来、ちょうど10年振りに行きました。
 
↑左:公園の案内板、右:石碑(石碑に何も文字が書かれていないため、詳細不明)
 
↑左:便所(シャレた立派な建物ですが便所です 笑)、右:あずまや(休憩場)

半月湖
半月湖は公園名にもあるように半月湖畔自然公園内にある湖です。
天気が良ければ半月湖に羊蹄山がキレイに映り、逆さ富士ならぬ逆さ蝦夷富士が見られるのですが、この日はあいにくの曇りでした。
詳しくは半月湖について書かれた説明文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:半月湖について書かれた説明文、右:半月湖

■説明文■
半月湖

 半月湖(海抜270m)は、約1万年前の沖積世に羊蹄山の火山活動で生じた爆裂火口に水がたまり出来たもので、火口内の片側に溶岩円頂が形成されているため、現在のような三日月型になりました。
 周囲の森林にはクマゲラ・アオバト・ソグミ等たくさんの野鳥やエゾリス・シラネアオイ・エンレイソウ等の花が咲き始め、自生するコブシやヤマザクラ等の樹木のシロやピンクの花がミズナラの新緑に映え、見事な景観となります。
 また、秋には色とりどりの紅葉が楽しめます。

後志支庁 後志森づくりセンター

羊蹄山
半月湖畔自然公園は上記したように羊蹄山の麓にある公園のため、羊蹄山登山口に直結しており、少しだけ羊蹄山を歩きました。
また、大正10年3月3日に半月湖周辺から登山道周辺の高山植物帯が天然記念物に指定され、その記念碑が昭和40年11月20日に建立され、羊蹄山登山口近くにあります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:羊蹄山登山口に立っている看板、右:休憩場
 
↑左:「天然記念物後方羊蹄山の盪蛙∧帯」、右:碑文

■碑文■
一 名称 天然記念物後方羊蹄山の高山植物帯
二 指定年月日 大正十年三月三日
三 説明事項
 後方羊蹄山(一八九三メートル)の山麓かつ無立木地帯に至る倶知安登山道路の左右約四百五十メートル及び高山帯の無立木地の全部について指定されている
 森林地帯かつ無立木地帯までの植物の垂直分布また無立木地帯(頂上部)はエゾノツガザクラ イワイチョウをはじめ各種の高山植物に富んでいる
四 注意事項 一 許可なく指定地域内の植物を採取してはならない
 二 許可なく指定地域内に立ち入ってはならない
 三 火気の使用に注意のこと
 四 前項に違反したもの及び植物の生育に支障を与える行為をしたものは文化戝保護法により罰せられる

高山植物
半月湖、羊蹄山周辺を歩いた時、天然記念物に指定されている高山植物帯の植物をたくさん見てきました。
 
 
 
 
 

〈峠下遺跡〉
倶知安には様々な遺跡があり、峠下遺跡はそのうちの1つです。
峠下遺跡を始め、倶知安にある様々な遺跡から土器や石器が見つかっており、それらは倶知安の博物館・倶知安風土館(後述参照)に展示されています。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「峠下遺跡」

■碑文■
 昭和33年峠下小学校児童が西北方300mの広鸞翆呂農亟鑪爐鯢縮椋亮茵当時の藤原通磨校長の努力により町遺跡発掘調査委員会が発足、34年7月名取武光北大助教授によって発掘された結果、縄文文化、無土器文化の石器であることが確認された。
 当町には倶知安神社境内・大仏寺周辺等で土・石器類が表面採取されているがこのことは知り別側が往昔大河であり採取地が堤防であったことを裏付けるものであろう。

昭和48年11月3日
倶知安町文化財保護調査委員会委員長 上野留蔵

〈豊穣の里〉
倶知安町開基120周年」でも書きましたが、倶知安北部の農業史が書かれた石碑、倶知安で一番最初に米作りに成功した青木利一の功績を讃えた石碑、旧青木農場記念樹、倶知安北部開基100周年を記念した石碑が瑞穂の地にあります。
旭ヶ丘公園同様、石碑が建立された理由や倶知安の歴史を深く追求してみたくなり、この地を訪ねました。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

倶知安北部の農業史

↑「豊穣の礎」

■碑文■
碑文

北海道開拓の初期、明治二十八年、先人は、熊笹の茂った原生の此の地に開墾の鍬を打ち下ろした。幾多の試練に耐えながら幾星霜…大正八年、西六号北五線のこの地で、ポンクトサン川の水を利用して、約七反の水田より約二石(五俵)の米の収穫を得た。翌大正九年、水田期成同盟会が設立され、同十年倶知安土功組合設立認可申請書の提出に至り、灌漑工事、造田事業が急速に進み、黄金の稲穂が波打つ美田が眺望される様になった。
以来半世紀、営々と稲作農業に励んで来たが、昭和四十年代に入り、水田経営の合理化と、農業経営を目指す近代的機械化農業への転換に意欲を燃やし、その基盤の確立と、更に五十数年を経た用水路の保全も不可能に近い状態になっているのを機に、道営圃場整備事業の気運が盛り上がり、促進期成会の設立を見た。時折りしも国の農業政策は転換期を迎え、水田の休耕転作等が要求される時でもあり田畑輪換農業をも夢見ていた。
詳細な設計を経て、昭和五十五年九月三日晴れて起工式の運びとなり夢の事業が進められた。北海道庁、開発建設部、後志支庁、土木現業所、倶知安町、倶知安土地改良区、倶知安農協等の各関係機関の協力指導の下に、関係者一致協力して、大型の圃場、灌漑排水施設のトラフ装工、前兆五十二メートルの水管橋、地区内町道の全舗装幹支線農道の完備等、隔世の感がある姿に生れ変り、併せて換地事業で農地利用の集団化も図られ、当事業の完遂を迎えたのである。
米の減反政策、水田利用再編成対策等幾多の変遷と困難を克服し、八ヶ年の歳月を経ての竣工を祝い、改めて諸関係機関に深く感謝し、ここに記念の碑を建立し、後世に、之を伝えるものである。
 昭和六十二年十一月十三日
 倶知安北部地区道営圃場整備期成会

 概要
 参加戸数 四十五戸
 工事面積 百四十ヘクタール
 総工事額 十三億四千百万円

水稲発祥の地

↑「米が稔った郷」

■碑文■
 明治32年水田を墾成し宮脇富担任の下に水稲の試作を始め両三年継続せしも好果を見ずして止む―山陰移住会社社誌
明治39年山陰移住会社解散後の一部を継いだ青木利一(岐阜県出身)はポンクトサン川から、かんがいし人との嘲笑を背に米づくりに傾注、43年に初めて米を稔らせて倶知安農業史に輝しい一夏を印した。
倶知安米のふる里、初めて米が稔った郷このあたりを今瑞穂と言う。

明治48年11月3日
倶知安町文化財保護調査委員会委員長 上野留蔵

旧青木農場記念樹
明治39年5月、青木農場開設時に植樹された記念樹です。
 


倶知安北部開基100周年記念碑

↑「翔け未来へ豊穣の里」

■碑文■
北部開基百年碑誌

 この地の開墾は明治二十八年六月二十三日山陰移住会社(島根県)二十戸の入植に始まる。すでに徳島県などから入地していた北五線以南の人たちとともに、熊笹地を覆い、巨樹密生する中、よく艱難辛苦、風雪に耐え、食糧不足に悩みながら睡眠を惜しんで努め、冷水害克服して、一致協力、良圃美田の里を創営した。
 今や豊穂連なり、じゃがいも稔るこの里は、羊蹄山・ニセコ連邦よりの青嵐薫って、余慶きわまりない。
 ここに開基百年の歴史をたどり、郷土創成の不朽の偉功を替え更に限りない未来への豊かな繁栄を、子孫に嘱するものである。

平成六年八月十四日
倶知安町長 宮下雄一郎

〈山陰移住会社跡地〉
豊穣の里から車で30秒ほどの場所にあります。
この地は島根県からの移住者を倶知安に入植させた山陰移住会社跡地であり、昭和19年に石碑が建立されました。

↑「開拓五十週年記念」

〈役場発祥の地〉
八幡の地に役場発祥の地があります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:「倶知安町は此処から創る」、右:碑文


■碑文■
明治29年4月25日 倶知安村戸長役場設置
明治29年9月11日 倶知安(現八幡)小学校創立
これに加えて巡査駐在所等創建時行政教育保安等の中心地であった

初代戸長 大井幹雄
初代校長 上田甚助
昭和47年11月3日 倶知安町

〈倶知安神社〉
尊農開基
倶知安神社の入り口に倶知安土功組合設立50周年、倶知安土地改良区改組20周年を記念した石碑が建立されています。

↑「尊農開基」

学校発祥の地
現在、倶知安神社となっているこの地に明治29年9月11日、倶知安最初の(小)学校・倶知安尋常小学校(のちの八幡小学校。昭和59年3月31日、廃校)が開校し、明治43年12月25日に上記の倶知安村戸長役場跡地に移転しました。
ここへは去年の秋にも行きました。
詳しくは「幼稚園ボランティア」を参照のこと。

↑「倶知安、小学校 発祥旧跡地」

〈旧倶知安の穀倉地帯〉
倶知安神社の向かいに倶知安西部の農業史が書かれた石碑があります。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「豊水沃土」

■碑文■
碑文

 北海道開拓の初期、明治二十五年先人は熊笹の茂った、この八幡の地に初めて開墾の鍬を打ち下ろした。
 大正十一年、土工組合発足と同時に始まった稲作は、人々の旺盛な開拓精神によって実を結び、黄金の稲穂が波打つ美田が眺望され、倶知安の穀倉地帯と呼ばれるに至った。
 その間、昭和四十年代に入ると、水田経営の合理化と農業経営の安定を目指す近代機械化農業への転換に意欲を燃やし、増原を実現した。
 昭和四十五年、時折しも国の農業政策が転換期を迎え、水田の休耕・転作等が求められており、一方田畑輸換農業をも待望していた折り、それまでの用水路の保全及び供給が不可能な状態になったのを機に、道営圃場整備事業の機運が盛り上がった。
 その後、詳細な計画を経て昭和五十年七月、晴れて機工の運びとなり待望の事業が進められ各関係機関の協力、指導の下に大型の圃場灌漑用排水トラフの装工農道の整備、舗装工事を完成させ、総合的土地改良事業を完遂したのである。
 その間、米の減反政策、水田利用の再編成対策等幾多の変遷と困難を克服して十三年の歳月を費やしての竣工を祝い、ここに記念の碑を建立し、後世に之を伝えるものである。

昭和六十三年十一月四日
倶知安町西部地区道営圃場整備事業期成会

概要
参加戸数 五十八戸
工事面積 二百三十ヘクタール
工事総額 二十八億七千九百万円

〈レルヒ公園〉
小さい頃から何度も遊びに行き、去年のゴールデンウィークにも旭ヶ丘公園へ行く前に立ち寄ったレルヒ公園。
今回も訪ねました。
理由は上記でも語っているように、倶知安の歴史を深く知るためです。
ここでも碑文を引用しながら説明を・・・と思ったのですが、札幌の自宅へ戻ってから知りましたが、何と旭ヶ丘公園にもレルヒ中佐について語られた石碑があるみたいなのです!
もっと早く知っていれば・・・(泣)。
というわけで、次回倶知安に帰省した時、旭ヶ丘公園にあるレルヒ中佐の石碑も含めて一緒に歴史を語りたいので、今回は写真のみの掲載とします。

↑「レルヒ中佐之像」

〈さくら公園〉
さくら公園はレルヒ公園から自転車で3分ほどのところにある公園であり、この公園から少し離れた倶知安橋の近くが倶知安開拓者入植跡地、ゆえに倶知安開基の場所とされています。
個人的には小学校時代、時々遊びに行った公園です。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「倶知あ草分けの地」

■碑文■
 原始林に覆われた倶知安原野に明治25年5月、仁木宇蔵氏を先達とした一行16名が入地、クトサン川筋(ここから南約400m)の猟小屋にたどりつき一夜を明かし翌日から開墾の鍬入れを行った。
 その後開拓が進むにつれこの猟小屋の跡に公設の駅逓が置かれ、この管理人として赴任したのが宮脇胤意氏(のち初代倶知安町長)であった。

昭和50年11月3日
倶知安町文化財保護調査委員会
委員長 上野留蔵

〈六郷鉄道記念公園〉
六郷鉄道記念公園(通称:六郷公園、鉄道公園)には特に幼稚園に入園する前に母と弟とよく行っていました。
実家から自転車で5分ほどであり、僕の通っていた東陵中学校の近くにあります。
また、この公園はかつて六郷駅(昭和61年10月31日に廃止となった胆振線の駅)でした。
現在、胆振線が存在した頃に活躍した汽車が展示されており、公園名にもあるように六郷鉄道記念公園となっています。
また、今は施錠されていて入れませんが、僕が小さい頃は汽車の中に入って客車のイスに座ったりなどしてよく遊んだものです。
ちなみに、「東陵中学校周辺の自然」の項目に載せた5枚目の写真、みなさん最初は「単なる道」と思ったことでしょう。
確かに今は単なる道ですが、胆振線が存在した頃はこの道に線路が通っていたそうです。
本当に歴史は深いですよね。
公園並びに胆振線などについて、詳しくは公園について書かれた説明文、胆振線の歴史について書かれた碑文を以って代えさせていただきます。

↑公園について書かれた説明文

■説明文■
六郷鉄道記念公園

後志と胆振を結ぶ大動脈として両地域発展のけん引力となった胆振線は、日本国有鉄道の改革により昭和61年10月31日廃止となった。この公園は67年の長きにわたって鉄路に刻まれた歴史の功績を永遠に伝えるため、かって胆振線で活躍した客車、緩急車をはじめ関係の諸施設を旧六郷駅構内敷地に展示し、鉄道記念公園として造成したものである。

昭和62年11月 倶知安町

旧六郷駅
 
↑左:踏み切り、右:汽車
 
↑左:駅の看板、右:信号機
 
↑左:洗面台、右:便所

SL動輪

↑左:9600型蒸気機関車動輪、右:左記の説明文

■説明文■
9600型上記機関車動輪

胆振線で活躍した9600型蒸気機関車と同型の動輪(番号9669)である。

直径1250cm 重量2.6t

胆振線生みの親の功績

↑「功績を讃えて」

■碑文■
 胆振線の生みの親中村興三松氏は明治十年七月石川県金石町(現在の金沢市)に生をうけた。海軍軍役を終えたあと志を立てて北海道倶知安町に来住、六郷市街で農産商会中村商店を起こし、大倉庫、大邸宅構えた豪商とうたわれた。
 大正八年脇方鉱山の資源輸送のため敷設された国鉄支線京極線一三・四粁の開通により明治末期からあった地域住民の鉄道願望がよみがえった。京極・喜茂別方面を商圏とし人望の厚かった中村興三松氏は、大正十五年衆望を担って私鉄胆振鉄道株式会社を設立、私戝を投げうって鉄道の敷設会社運営に奔走、昭和三十年十月京極・喜茂別間一〇・八粁の鉄道敷設を成し遂げた。
 昭和五年からは、喜茂別・伊達を結ぶ胆振縦貫鉄道実現に没頭、その中核にあって活躍し、昭和十二年着工以来およそ五年の歳月と血のにじむ努力を経て、昭和十六年十月十二日同区間五九・二粁全線開通の悲願を果たした。その後胆振線は昭和十九年七月一日国有化となった。
 時は流れ、社会が変わり国鉄合理化の嵐の中で、昭和六十一年十月三十一日中村興三松氏らが生み育てた胆振線は、京極線開通以来六十七年、全線開通以来四十五年の歴史に終止符をうったが、ゆかりのこの地に六郷鉄道記念公園を建設するにあたり半生を胆振線に捧げた氏の業績を讃えてこの碑を建立す

昭和六十三年七月
中村興三松記念碑建立期成会

遊具
 
 

〈倶知安町公民館〉
SL
六郷鉄道記念公園で汽車の話題を出したので、こちらでも汽車の話題を出します。
公民館の敷地内にSL・79615が展示されており、実際に運転席に座ることもできるようになっています。
ちなみに、ここはかつて駅だったわけではなく、単に公民館の敷地内にSLが展示されているだけです。
また、ここは実家から自転車で1〜2分ほどのところであり、小さい頃よく遊びに来ていました。
 
↑左:SL・79615、右:信号機
 
↑左:煙突、右:運転席
 
↑左:メーター、右:石炭投入口
 
↑左:倶知安駅の看板、右:SL・79615について書かれた説明文

■説明文■
「79615」のあしあと(2つ目羊蹄号)

製造年月日 大正13年2月15日
製造所 日本車輌株式会社
機関車の規格
 長さ 16.56m
 高さ 3.81m
 幅 2.62m
機関車の重量
 運転整備 95.11t
 空車 71.40t
車輪の直径 1.25m
水の量 13㎥
石炭の両 6t
最大指示力 980馬力
主な運転路線
 1.胆振線
 2.岩内線
 3.富良野線
 4.室蘭本線
 5.夕張線
 (夕張機関区をふりだしに13機関区を廻り活躍した)
運転距離 2,250.895km(地球およそ56周)
使用停止年月日 昭和49年7月6日(倶知安機関区調べ)

倶知安町・倶知安町教育委員会・倶知安町蒸気機関車保存会

子を想う親
同じく公民館の敷地内に子を想う親の姿が象徴された像があります。
昭和55年、倶知安ライオンズクラブ認証20周年を記念して建立されました。

↑「慈愛」

〈廃校〉
倶知安町開基120周年」でも書きましたが、僕が中学3年生から高校3年生までの4年間、郷土史を調べるにあたって最も力を入れていたのは学校の歴史です。
しかし、何度か上記したように、廃校となった学校の石碑もまた碑文までには目を配っていませんでした。
そのため廃校の跡地も回りました。
本来ならばここで廃校についても碑文を引用しながら述べたいところなのですが、いずれ倶知安の学校の特集的なものをこのブログでやりたいと思っていますので、今日はとりあえず写真のみの掲載とします。
また、「倶知安町開基120周年」の記事で廃校となった学校の簡単な沿革を述べているので、よろしければご覧下さい。
ちなみに、寒別小学校の石碑の正面写真を撮り忘れてしまったので、代わりに後ろの写真を載せます。
でも、なぜ後ろはしっかり撮っているのに、前は撮り忘れたんだ(笑)?
 
↑左:「學校教育發祥之地 八幡」(八幡小学校)、右:「我が瑞穂」(瑞穂小学校)
 
↑左:「愛鳥モデル校 比羅夫小学校」(比羅夫小学校)、右:「我が学舎」(巽小学校)
 
↑左:「学窓 ふじみ」(富士見小学校)、右:「大和小学校跡」(大和小学校)
 
↑左:「学舎」(寒別小学校)、右:「末広小学校跡」(末広小学校)

〈倶知安風土館〉
倶知安町開基120周年」でも紹介した倶知安風土館(通称:風土館)。
風土館へは中学・高校時代によく行ったものです(高校生以下は無料で入場できます)。
また、上記しましたが、僕が中学3年生〜高校3年生までの4年間、学校の歴史を調べるにあたって風土館の資料室を借りるなど、とてもお世話になりました。
今回、久しぶりに風土館に行ってきました。

「桑原コレクション」の部屋
この部屋は教育者でもあり、植物とともに人生を歩んだ桑原義晴氏の経歴が書かれたパネル、植物の標本が展示されています。
 
 

「鉄道」の部屋
この部屋は「六郷鉄道記念公園」の項目でも載せましたが、胆振線の駅の看板、胆振線で活用された品などが展示されており、部屋の中は昔の駅が再現されています。
 
 
 
 
 
 
 
 

「学校」の部屋
この部屋は昔の学校で使用された品々などが展示されており、部屋の中は昔の学校が再現されています。
 
 
 
 
 

「あきなう」の部屋
この部屋は昔の商い処の品々などが展示されており、昔の菓子店や呉服屋などが再現されています。
 
 
 
 
 

「すまう」の部屋
この部屋は昔の電気機器や家具などが展示されており、昔の平屋が再現されています。
 
 
 

「この指とまれ 〜あ・そ・ぼ〜」の部屋
この部屋は昔の玩具や自転車、バイクなどが展示されており、昔の遊び場が再現されています。
また、実際に玩具を使って遊ぶこともできます。
 


零戦の翼
太平洋戦争時にニセコアンヌプリ山頂で行われた着氷実験に使用され、終戦によって山頂近くの沢に廃棄されていた海軍零式戦闘機の右主翼が風土館に展示されています。
 
 

動物の標本
様々な動物の標本が飾られています。
 
 
 
 

その他
他にも様々な展示品があります。
 
↑左:昔のミシン、右:紡毛機(左)&紡ぎ車(右)
 
↑左:ミルク缶、右:昔の工具等
 
↑左:スバル360、右:耕転機シャーシ

↑SL動輪

詳しくは風土館のホームページをご覧下さい。
http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/town/huudokan/huudokan.jsp

〈感想〉
今回、本当に短期間で倶知安の様々なところを回りました。
去年行った場所や久しぶりに行く場所など様々ありましたが、本当に楽しかったです。
しかし、そのお陰でこのブログをまとめるのに1週間近くかかりました(笑)。
特に、碑文の行書や旧字体などを解読するのが大変であり、そこに最も時間がかかりました。
また、上記したようにこれだけたくさんの場所ですので、だいぶ急ぎ足で回りました。
もう少しゆっくりと回りたかったです。
いずれまた機会を見つけてゆっくりと1つひとつ丁寧に回りたいものです。
また、今回紹介した倶知安の史跡はほんの一部に過ぎません。
行ったことのない倶知安の史跡はまだまだたくさんありますので、ぜひ今度また違う史跡を訪ねてみたいと思います。

〈おまけ〉
その1
僕が倶知安へ帰省した15日、父は山菜採りに行っていました。
父の帰宅後、倶知安近隣の町・岩内にいる親戚に父と一緒に山菜を届けに行きました。
行きは僕が車を久しぶりに運転、しかもマニュアル車であり、少し緊張しました。
岩内に着き、去年以来親戚の伯父に再会し、僕の近況を伝えました。
その後、僕よりひと足早く社会人となり、岩内で消防士をしている2つ下の弟の家へ行きましたが、弟の車がなく、弟は入れ違いで倶知安へ行っていました。
弟は非番かつ僕が倶知安へ帰省するということで、実家へ帰省して来てくれました。
僕と父も自宅へ戻り、弟とも久しぶりに再会しました。
その後、弟のマイカー・インプレッサで弟と一緒にドライブに行きました。
運転手は主に弟でしたが、途中で僕も少し運転させてもらいました。
スポーツカータイプのインプレッサであり、アクセルを少し強く踏むと80キロ近く出るような車であり、少し慎重に運転しました。
弟は今年の3月、高校卒業後にすぐに消防士となり、色々慣れないこともあるようであり、弟の悩みなどを聞きながら、少し遠回りでドライブしました。
また、ドライブの途中、羊蹄山がキレイに見える八幡の地(「旧倶知安の穀倉地帯」の項目の場所)に立ち寄りました。
夕日のあたる、残雪の羊蹄山がとてもキレイでした。


その2 
15日の夕食は父がその日に採ってきた新鮮な山菜を使った料理が主でした。
僕が実家に帰省する前まではカップラーメンかインスタントラーメン、レトルトものの生活が続いていたので、光り輝くご馳走に見えました(実際、かなりのご馳走だと思います)。
実家にいた時には感じなかった、当たり前のようにご飯をお腹いっぱい食べられることの幸福感、親へのありがたみを、未だに就職先の決まらない自分の現状だけにとても強く感じました。

↑ご飯、アズキナと豆腐の味噌汁

↑アイヌネギ&ウド&タラノメの天ぷら、アイヌネギの酢味噌和え、フキの炒め物、ヤチブキのお浸し(他はカツオのたたきとフライドチキン)

その3
16日、久しぶりにたこ焼きいっちゃんという店に行きました。
マクドナルドやケンタッキーなどのメジャーなファストフード店のない倶知安のファストフード店的な存在の店です。
個人営業の店であり、営業者の方の玄関先でたこ焼きやフライドチキン、フライドポテトを作っている小さな小さな店です。
ちなみに、この店は僕が通っていた倶知安高等学校の近くにあり、高校時代の帰り道、小腹が空いた時によく買いに行ったものです。
何度も行っているうちに店主の方とも顔馴染みとなり、この日も久しぶりにお会いし、僕の近況などについて話しました。
たこ焼きは8個入りで250円、フライドチキン&フライドポテトは110円であり、とても安く、特に小・中・高校生にはとてもお手ごろ価格で、実際小・中・高校生にも好評です。
それに何より美味い!
久しぶりにたこ焼き、フライドチキン、フライドポテトを買って食べ、本当に美味しかったです。
ちなみに、僕の高校時代はおでんもあり、特に寒い冬場は1日掛けて煮込まれたおでんが本当に美味しかったです。


その4
21日、父が今年初めてのタケノコ採りに行きました。
毎年、父はタケノコをトータル5000〜6000本ほどは採ってきます。
21日は思った以上にタケノコがたくさん採れたようであり、サミットが行われた洞爺湖に住む祖母と伯母のところへ父と一緒にタケノコを届けに行きました。
祖母には去年の5月以来、久しぶりに再会しました。
祖母は今年86歳となり、しばらく会わないうちにだいぶ歳を重ねたように見えましたが、ともかくこれからも元気で健康第一に過ごして欲しいです。
自宅へ戻ると父が採ってきたばかりのタケノコ料理がずらり!
今年初のタケノコ、本当に最高でした!!
また、札幌へ戻った22日、母が持たせてくれた前日の残りのタケノコご飯と玉子焼きを夕食で食べました。

↑タケノコご飯、タケノコと油揚げの味噌汁、タケノコの刺身(他はシャケのコロッケとミズナと豆腐のごま味噌和え)

↑タケノコご飯と玉子焼き

その5
今年11歳になった我が家の愛犬、ロンです。
柴犬のオスです。




最後に絶景の羊蹄山を1枚!
寒別小学校跡地から少し離れた場所で撮影しました。
今回、様々な場所で羊蹄山を撮影しましたが、最もキレイに撮影できた写真だと思っています。


〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)


倶知安町開基120周年

Congratulations!
タイトルにもあるように、来年、我が出身地の倶知安が開基120周年を迎えます。
僕もその事実をつい数日前に知りました。
数日前、倶知安町開基100年記念誌「美わしき大地の讃歌」を見ていると、記念誌が発行されたのは平成3年と書いてありました。
平成3年は1991年、来年は平成23年(2011年)・・・ということは来年は開基120周年か!
記念誌を見ながら1人で舞い上がっていました(笑)。
倶知安は明治24年(1891年)に開基、以来様々な歴史を積み上げてきました。
今回は堅苦しく語るのはやめ、僕が中学時代から撮ってきた倶知安の写真をたくさん載せながら簡潔に倶知安を語りたいと思います。

〈開拓当時の面影〉
特に瑞穂、末広、大和、八幡などの地域に開拓当時の面影を残している場所がたくさんあります。
瑞穂、扶桑(大和の近く)には遺跡もあります。
 
↑左:瑞穂、右:末広
 
↑左:大和、右:八幡
 
↑冬のドライブ中に撮った写真(地域は不詳)

〈豊穣の里〉
倶知安北部の農業史が書かれた石碑、倶知安で一番最初に米作りに成功した青木利一の功績を讃えた石碑、旧青木農場記念樹、倶知安北部開基100周年を記念した石碑が瑞穂の地にあります。
 
↑左:「豊穣の礎」、右:左側に写る木は明治39年5月に青木農場開設記念で植樹された記念樹
 
↑左:旧青木農場記念樹を示す石碑、右:「米が稔った郷」

↑「翔け未来へ豊穣の里」

〈廃校〉
僕が中学3年次から高校3年次までの4年間、郷土史を調べるにあたって最も力を入れていたのは学校の歴史です。

八幡小学校
倶知安最初の学校。明治29年9月11日、倶知安尋常小学校として開校。明治31年6月8日、倶知安第二尋常小学校の開校に伴い、倶知安第一尋常小学校と改称。昭和22年5月1日、中学校が併置され、八幡小中学校となる。のちの八幡小学校。昭和59年3月31日、廃校。
 
↑左:正門、右:石碑

瑞穂小学校
明治30年6月、米田和一が私塾を開設。翌31年3月11日、校舎を新築して4月3日に倶知安尋常小学校倶登山分校として開校。同年6月8日、独立して倶知安第二尋常小学校となる。昭和22年5月1日、中学校が併置され、瑞穂小中学校となる。のちの瑞穂小学校。昭和59年3月31日、廃校。
 
↑左:正門、右:石碑

比羅夫小学校
明治31年3月1日、服部大融が慈民教育所を開設。翌32年9月15日、比羅夫の村有地に学校の設置が決まり、10月15日に倶知安第四尋常小学校として開校。のちの比羅夫小学校。昭和62年3月31日、廃校。現在、校舎を残し、冒険家族という宿・自然生活体験センターとなっている。
 
↑左:校舎(冒険家族)、右:石碑

以下のURLは冒険家族のホームページです。
http://www.bouken-kazoku.com/

巽小学校
明治33年9月25日、倶知安第五尋常小学校として開校。のちの巽小学校。昭和59年3月31日、廃校。
 
↑左:校門、右:石碑

ちなみに、巽小学校は母の母校です。

富士見小学校
当初、富士見に開所した私立の教授所であり、明治41年4月1日に倶知安第五尋常小学校分教場となる。明治44年9月21日、独立して倶知安第七尋常小学校となる。のちの富士見小学校。昭和59年3月31日、廃校。
 
↑左:校門と石碑、右:校舎があった場所

大和小学校
当初、明治37年5月、大和に開所した私立の教授所であり、翌38年7月1日に倶知安第二尋常小学校付属ポンクトサン特別教授所となった。大正元年9月20日、独立して倶知安第八尋常小学校となる。のちの大和小学校。昭和51年3月31日、廃校。
 
↑左:石碑、右:うさぎやかめの形に切られたおんこの木

峠下小学校
明治36年4月19日、倶登山簡易教育所として開所。大正6年4月1日、独立して倶登山尋常小学校となるが、大正13年4月1日に児童数の減少により、倶知安第三尋常高等小学校倶登山分教場となる。昭和22年4月1日、再度独立して峠下小学校となる。昭和51年3月31日、廃校。現在、跡地に羊蹄ハイツという特別養護老人ホームが建てられており、少し離れた場所に校門と校舎の一部が残っている。
 
↑左:羊蹄ハイツ、右:校門と校舎の一部

寒別小学校
明治44年6月1日、倶知安第一尋常小学校付属東特別教授所として開所。大正7年6月24日、独立して東尋常小学校となる。昭和22年5月1日、中学校が併置され、寒別小中学校となる。のちの寒別小学校。昭和59年3月31日、廃校。現在、校舎を残し、FAF(フロンティア・アート・ファーム)工房という陶芸体験や羊毛加工体験ができる施設となっている。
 
↑左:校舎(FAF工房)、右:石碑

ちなみに、寒別小中学校時代、中学校に母が通っていました。
また、FAF工房は表現サークルなどでお世話になっているY・N先生のお知り合いの方が経営されており、本当に世界とは狭いものですよね。
以下のURLはFAF工房のホームページです。
http://www8.plala.or.jp/FAFkoubou/

末広小学校
明治40年4月、倶知安第二尋常小学校寒泉特別教授所として開所。大正14年6月、児童数の減少により、教授所が閉鎖。やむなく、森唯市が私立寒泉修学館を起こして授業を続け、翌15年2月に教授所が復活。昭和29年4月1日、独立して末広小学校となる。昭和55年3月31日、廃校。現在、校舎の一部を残し、倉庫として活用されているようである。
 
↑左:校舎の一部(倉庫)、右:石碑

〈倶知安唯一の木造校舎の学校並びに後志管内唯一の分校〉
倶知安には現在もなお現役で活躍する木造校舎の学校、樺山分校があります(倶知安第六尋常小学校)。
倶知安町立西小学校の分校であり、昭和9年10月14日に完成した校舎が現在も使われています。
平成17年に100周年を迎え、校舎は修繕を繰り返しながら、学校に通う子ども達を温かく包んでいます。
今の時代では珍しい複式学級であり、1・2年生、3・4年生、5・6年生の3クラス編成です。
また、数年前までは汲み取り式便所でした。
毎年、7月には新緑フェスティバルという行事が行われ、バザーや野菜・果物のたたき売りなどがあり、自然で採れた野菜をふんだんに使ったカレーなども食べられます。
ちなみに、樺山分校は祖母の母校です。
 
↑左:校舎、右:校門
 
↑左:校章、右:玄関
 
↑左:廊下、右:体育館

正月、盆に次ぐ「運動会」
 木綿の筒そでになった着物にもんぺ姿で学校に通った。冬には手が出ないようなマントを羽織ってね。私はスキーがはけないものだから、あまりにふぶいた時は舟のような形の箱に乗って馬に引っ張ってもらい、道しるし(積雪や吹雪で道路が分からなくならないよう目印として立てた棒)に沿って通ったものだ。
 運動会はお祭りみたいなもの。運動会があったのは今と同じ6月。農家はいっとき落ち着くころだから、親から子供まで家族、地域みんなが集まって、お日さまが沈むまでやっていた。お正月、お盆と、この運動会くらいしか白いご飯が食べられなかった。それくらい特別な日だった。ラジオもテレビもない時代だったからね。

上記の文章は平成17年10月の倶知安町広報に載っていた記事です。
樺山分校が100周年を迎え、昭和10年卒業の女性が樺山分校(当時は倶知安第六尋常小学校)での思い出を語った記事です。
ちなみに、「昭和10年卒業の女性」とは祖母の姉なのですが(笑)。
以下のURLは樺山分校のホームページです。
http://www.hirafu.net/~kabayama/

〈現在校〉
廃校と樺山分校を紹介したため、倶知安の現在校も紹介します!
廃校を調べていた時、並行して現在校も調べました。

小学校
現在、倶知安には4校(+樺山分校)の小学校があります。
倶知安小学校は倶知安で3番目にできた小学校(倶知安第三尋常小学校)であり、僕と弟2人の母校です。
また、倶知安で最も歴史の長い学校であり、今年112周年を迎えました。
北陽小学校は父の母校であり、校舎は倶知安の学校の中で最も新しいです。
他に、東小学校、倶知安の学校の中で最も歴史が新しい西小学校があります。
 
↑左:倶知安小学校、右:北陽小学校
 
↑左:東小学校、右:西小学校

中学校
現在、倶知安には2校の中学校があります。
倶知安中学校は父の母校であり、東陵中学校は僕と弟2人の母校です。
両校共に耐震強度の問題やアスベストが見つかったりしたこと、定員割れしていることもあり、数年後には両校統合すると同時に両校共に廃校となり、新設の中学校が1校建つそうです。
母校がなくなるというのは初めてのことであり、とても寂しいです・・・。
 
↑左:倶知安中学校、右:東陵中学校

高等学校
現在、倶知安には2校の高等学校があります。
倶知安高等学校は僕と母の母校であり、現在弟2人が通っています。
他に、倶知安農業高等学校があります。
 
↑左:倶知安高等学校、右:倶知安農業高等学校

〈倶知安風土館〉
倶知安には倶知安の様々な歴史や自然を展示した倶知安風土館という博物館があります。
僕が学校の歴史を調べる時にも資料を拝見させていただくなど、とてもお世話になりました。
ぜひ、倶知安に立ち寄った際に一度は行っていただきたい場所です。
個人的なお勧めとしては数年前にニセコアンヌプリで発見された零戦の翼です。
本当にものすごい迫力があります。
以下のURLは倶知安風土館のホームページです。
http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/town/huudokan/huudokan.jsp
 
↑左:1階に展示されている車、右:零戦の翼
 
↑左:昔の菓子屋、右:昔の呉服店
 
↑外にある展示物

〈その他〉
かつて、比羅夫に郵便局があったそうです。
その建物が数年前まで残っていました。
その建物に併設されていたのが何と父が昔暮らしていた家であり、父がその家を出た後は4年前に亡くなった祖母の姉(樺山分校の思い出を語った祖母の姉のさらに上の姉)が住んでいました。
郵便局の廃屋は亡くなった祖母の姉の家の物置として使用されていました。


〈今日から明日という未来へ〉
さて、「簡潔に」と言っていた割りにたくさん書き込んでしまいました(笑)。
再度書きますが、来年倶知安は開基120年を迎えます。
今日から明日という未来へ、新たな歴史を積んでいきます。
そして、後世に語り継がれていくことで、倶知安の歴史が深まるのです。
これからも倶知安の歴史を見届けていきたいです。
最後に、みなさん、ぜひ倶知安に遊びに来て下さい!
以下のURLは倶知安のホームページです。
http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/index.jsp

↑サイクリングの時に撮った蝦夷地の富士


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