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  • 2017.06.24 Saturday
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倶知安町のんびり旅【その4】

2ヶ月振りの更新です!
2ヶ月前に初めて社会人となり、本当に様々な厳しさや辛さを感じながら、日々を過ごしています。
今まで気持ちの余裕もなく(今もそれほどあるわけではありませんが)、しばらくブログのことは頭から離れていました。

ってなわけで言い訳はここまでにして、このブログでは御馴染み(?)となった過ぎし日の思い出第1弾!
就職が決まった6月1日、住民票の移籍や通帳の住所変更、携帯電話の機種変更などもあり、地元の倶知安へ帰省しました。
6月2日に様々な用事を済ませつつ、時間を見つけて自分の訪ねたことのなかった倶知安の史跡を訪ねましたので、また紹介します。

〈レルヒ中佐〜レルヒ公園&旭ヶ丘公園〜〉
倶知安町のんびり旅【その3】」で紹介したレルヒ中佐を記念して造られたレルヒ公園にレルヒ中佐の像があり、それは小さい頃から知っていましたが、何と冬場はスキー場である旭ヶ丘公園にもレルヒ中佐について書かれた石碑があることを知り、今回訪ねてきました。
せっかくなので、レルヒ公園と旭ヶ丘公園のレルヒ中佐の像の碑文を載せますので、レルヒ中佐について、倶知安のスキーの歴史について知っていただければと思います。

レルヒ公園

↑「レルヒ中佐之像」

■碑文■
由来

 オーストリア国武官テオドール・フオン・レルヒ中佐は、明治四十三年日本に派遣され二年に亘って我が国陸軍の将校達に一本杕によるスキーの指導を行った。
 明治四十五年四月十五日に旭川市第七師団将校等を伴い来町したレルヒ中佐は、十六日に旭ヶ丘付近にて町民にスキー練習を公開し、翌十七日には、エゾ富士と言われる秀峰羊蹄山(一八九三M)にスキー登頂を挑んだ
 この登頂には、一行十名の外に町内の高山万次郎、嶋田賢三、山根長松が道案内として同行したが、急峻と零下三十度の酷寒、しかも視界零に近い猛吹雪に見舞われる中で九時間余を費やして登頂に思考し全員無事帰着した。
 「スキーの町」を宣言する倶知安町は、昭和六十一年二月に本町において開催される代四十一回国民体育大会冬季大会スキー競技会を前にして、レルヒ中佐一行の壮挙を記念するとともに、日本文化を理解し、生涯を通して日本をこよなく愛したレルヒ中佐に、深い敬慕の念をもって記念公園を建設、あわせて有志一同は浄財を募ってレルヒ像を建立し、我が国「スキーの父」の功績を永遠に讃えることにした。

 昭和六十一年十一月十五日

旭ヶ丘公園

↑「レルヒ少佐」

■碑文■
明治四十五年四月十六日オーストリア武官テオドール.フォン.レルヒ少佐は第七師軍将校八名を率い軍校スキーをもって羊蹄山の冬山登山を試みこの地に於てスキー練習を行い翌十七日羊蹄山登頂を決行した
この歴史を永く後世に伝えるため町制施行五十周年記念事業としてこれを建つ

倶知安町

〈円融寺〉
明治30年3月、服部大融が比羅夫に真宗大谷派の説教所を開所し、翌31年3月1日に子ども達の教育のために説教所を開放して慈民教育所を開設しました。
この説教所が現在の円融寺です。
また、「倶知安開基120周年」で書きましたが、慈民教育所はのちの比羅夫小学校です。
この円融寺の境内に加賀団体の入植記念碑があります。
加賀とは石川県の都市であり、石川県からの入植者の団体が開拓したことにちなんで加賀団体と呼ばれています。
ちなみに、空知管内の長沼町には倶知安と同様に石川県からの入植者による開拓にちなんでそのまま加賀団体という地名が存在し、倶知安にもまた、山梨県からの入植者による開拓にちなんで山梨という地名が存在します。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「崇徳碑」

■碑文■
碑文

此地文余ノ熊笹欝蒼タル大森林ニ蔽ハレ入墾両年ニシテ始メテ羊蹄ノ山容を看ル

明治二十九年石川県能美郡長野村寺井野村一帯は手取川の水禍で荒廃した八反田角太郎を総代とする加賀団体村民三十余人は流氓の宿命に甘んぜず翌三十年二月未知の辺境たる此の地すなわち羊蹄山麓下ソスケに入植した白雪皚々朔風破膚のこの処女地に当初仮小屋三戸のみ食糧をはじめ困苦は表現を絶した翌年古里に在った二十二戸も参加した字義通り風雪に挑んだ開拓の序章は冒頭に録した簡明勁烈な三行が最もよく伝える開拓者精神は米国だけでなく各国にある日本人もまた明治以来北海道開拓に鮮烈にその精神を発揮した 米国の草の根民主主義は西部開拓の過程で確立された八反田角太郎先導下のこの一団は自助と互助による規律協和と円融を恵む宗教により日本の根生い民主主義を育てたこの一団に対する宮辺の援助は後代に比して実に僅少入植第一年の収穫は麦豆反当たり四斗に過ぎなかった 児孫のために美田を買わず先人は美田を創作し豊沃を後代に遺した元来祥語で文化とは耕やすことを言うすなわち先人は文化を創造したのであるこの偉業はまさに平和な民族発展の道標である開道百年に際し建立したのが父祖明治人の留魂の碑である

昭和四十三年八月十五日
北海道知事 町村金五書

〈岩尾別開基100周年記念碑〉
岩尾別の開基100周年を記念した石碑を母の職場への行き途中に見つけました。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。

↑「拓秀峰麓郷」

■碑文■
岩尾別開基百年碑

 この地岩尾別は、明治三〇年代はじめ、成鷯ー 壁抻蓋)、武岡豊太(兵庫県)が創設した二農場及び個人入植者により開拓された。
 清洌な水と豊かな川の幸、四季それぞれの山の幸に恵まれてはいるが、丘陵と澤深い岩尾別原野で、つましい開拓小屋、粗衣、粗食に耐え、地を覆う竹・熊笹・林立する巨木を切り拓き、さらに酷寒、猛暑の自然と闘った開拓先人の労苦は想像を絶した。
 曽って炭焼く煙がたなびき、石切る者がだましたこの里も、観光地の玄関先として様相を一変した。
 ここに地域開発百年にあたり、故里創成の偉業を賛え、限りない未来に夢を託して之を遺す。

平成七年七月
倶知安町長 伊藤 弘書

〈大仏寺〉
旭ヶ丘公園の近くにある大仏寺の天井画が倶知安町指定有形文化財に指定されており、そのことについて書かれた石碑が大仏寺の境内にあります。
奇しくも大仏寺には「倶知安町開基120周年」で書いたように僕の大伯母(祖母の姉)が眠っており、お盆のお寺参りの時にでも見る機会があれば見てみたいと思います。
詳しくは碑文を以って代えさせていただきます。
 
↑左:「われ鍬をもて山水を画おん」、右:碑文


■碑文■
初代住耺斉藤忍隨気宇闊達仏学術絵画に秀す本堂天井画は倶知安町文化戝第1号に指定した
此処から後志原野に俯瞰し大悟す 喝

文筆者 倶知安町文化戝保護調査委員会
委員長 上野留蔵

昭和47年11月3日 倶知安町

〈後志支庁〉
後志支庁の敷地内に後志高等国民学校の記念碑があります。
後志高等国民学校は大正11年に倶知安に建てられた私立校です。
本来であれば碑文を載せて詳しく説明したかったのですが、読み取れない部分も多々あり、載せることができませんがご了承下さい。

↑「後志高等国民学校記念」

〈倶知安役場〉
倶知安役場の前に倶知安町民憲章が書かれた石碑があります。
倶知安町民憲章を載せるとともに、詳しい説明は碑文を以って代えさせていただきます。
私事ですが、札幌へ住民登録をした現在も倶知安への郷土愛を持ち続け、自称倶知安町民でもあることをこれからも心に留めておきたいと思います。


倶知安町民憲章

一 仕事を工夫し力をあわせ豊かな町をつくりましょう
一 郷土を愛し教養をたかめ文化の町をつくりましょう
一 自然をいかし環境をととのえ美しい町をつくりましょう
一 きまりを守り親切に助けあい明るい町をつくりましょう
一 未来に希望をもち若さにあふれた伸びゆく町をつくりましょう

■碑文■
輝く一九七〇年一月に郷土躍進の町民指標として町民憲章が制定せられた
この意義を記念し之の碑を建つ
 協賛 倶知安青年会議所
 題字 北海道知事 町村金五
 昭和四十五年六月十四日
  倶知安町長 吉田冨美雄

〈感想〉
5月15〜22日にかけて倶知安に1週間滞在し、2週間も経たないうちに就職先が決まり、中9日でまた倶知安に帰省することになろうとは予想もしませんでした。
倶知安に帰省した目的は上記したように、住民票の移籍や通帳の住所変更といった就職に関わることをするために帰省したため、かなりかけ足ではありましたが、自分の訪ねたことのなかった史跡も訪ねることができ、良かったです。
社会人となってなかなか倶知安に帰省する時間もなかなかありませんが、機会を見つけてまた帰省しようと思います。

〈おまけ〉
その1
倶知安町のんびり旅【その3】」で紹介した倶知安にある小さなファストフード店的な店・たこ焼きいっちゃんのたこ焼き、フライドチキン、フライドポテトです。
僕の就職決定報告も兼ねて行って来ました。
店主の方が「少ないけどフライドチキンとフライドポテトはタダでええわ!就職祝いや!!」と言って下さり、何とたこ焼きの250円だけ払い、他はタダにしてくれました!
何ともありがたかったです(涙)!!
ぜひ、また倶知安に帰省した時に行きたいです。


その2
旭ヶ丘公園に芝桜が咲き始めていました。
これがあと数週間もすると山全体が芝桜の桃色で埋め尽くされ、とてもキレイです。
芝桜祭りというのもあります。
僕は行ったことがありませんが(笑)。


その3
旭ヶ丘を登り、約15分後に頂上に辿り着きました。
あいにくの曇りで残念でしたが、恐らく中学3年生の時にスキーをしに旭ヶ丘に行って以来、久しぶりに倶知安全体を見渡しました。


〈リンク〉
http://importants.jugem.jp/?eid=7(倶知安町のんびり旅)
http://importants.jugem.jp/?eid=20(倶知安町のんびり旅【その2】)
http://importants.jugem.jp/?eid=56(倶知安町のんびり旅【その3】)


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コメント
ブログ読ませていただきました。
八反田角太郎というのは恐らく私のひい爺さん、もしくはひいひい爺さんにあたるのですが何か情報等ございますか?記念碑があると先祖代々聞いているのですが..
  • 2015/09/12 9:23 PM
kさん

コメントありがとうございます。
そして、お返事が大変遅くなり、申し訳ございません…。
八反田角太郎氏の子孫に当たるのですか?!
コメントをいただけて大変光栄です!

私は主に2011年から昨年2014年までの3年間、倶知安町内における様々な史跡を訪ねてきました。
少なくとも倶知安町百年史に記載されている史跡は全て訪ねました。
kさんが仰る記念碑とは、ブログに載せた、円融寺境内に建立されている記念碑以外のものということでしょうか?
もし、そうでしたら、残念ながら現在のところ把握致しておりません…。

力になれず、申し訳ございません…。
倶知安風土館に様々な郷土資料がございます。
一度、お訪ねになられてはいかがでしょうか?
http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/culture-sports/kucchan-huudokan/
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